『ネクタイの火種』
朝六時四十二分。目覚ましが鳴るより先に、スマホの通知が鳴った。
「本日、全社会議の議題に一部変更があります」
変更があるのは議題だけじゃない。胃の位置も、顔色も、人生観も、だ。
洗面台で顔を洗い、鏡の前でネクタイを結ぶ。結び目が一回で決まる日は、なぜか電車が遅れる。結び目が決まらない日は、なぜか上司の機嫌が悪い。世界はいつも、こちらの小さな希望に丁寧に意地悪をする。
やり直し三回目。結び目が少し斜めで、でも時間がない。今日の僕は「それでも行く」の日だ。
玄関で靴を履きながら、寝室を振り返る。恋人の梓がベッドの端で丸まっている。髪が枕に散って、頬が少し赤い。夜更かしして書類を直していたのは僕なのに、眠る姿の罪悪感は梓のほうが似合う。
起こさないように、小さな声で言う。
「行ってきます」
返事はない。けれど梓の指が、布団の中でわずかに動いた。寝言みたいに、世界が「うん」と言ってくれた気がする。
駅までの道は、朝の匂いがする。焼きたてのパンと、濡れたアスファルトと、急ぐ人の汗の予告編。
改札の向こうは、いつも戦場の入口だ。階段を下りるだけで、肩と肩がぶつかって、無言の小競り合いが始まる。誰も悪くないのに、誰も譲れない。人間は朝からもう、余裕を使い切っている。
ホームで押し込まれ、車内のつり革に指を引っかける。息を吸うスペースが薄い。隣の人の香水が強くて、頭が遠くなる。遠くなるのは意識だけで、仕事は近づく一方だ。
ドアの上の広告に「未来を変える一歩を」と書いてある。朝から未来なんて、変えたくない。せめて遅延だけは変えてほしい。
会社に着くと、入口の自動ドアがやけに元気よく開いた。僕の気分を知らないドアは、いつも無邪気で残酷だ。
八時五十七分。ギリギリで席に滑り込み、パソコンの電源を入れる。画面が立ち上がるまでの数秒が、心臓のウォームアップみたいに長い。
メールが三十七件。チャットが二十六件。共有フォルダの更新が四つ。午前中だけで、僕の脳はもう午後を嫌っている。
「遠野くん、会議資料、こっちにも回して」
係長の声が頭上から落ちる。声は丁寧なのに、落下速度が隕石だ。
「はい、すぐ」
すぐ、は便利な言葉だ。すぐ、を言えば「まだできてない」が薄まる気がする。実際は薄まらない。むしろ濃くなる。すぐ、の約束は、時間が経つほど毒になる。
午前の会議は、会議のための会議だった。誰かが言った言葉を、別の誰かが別の言葉に言い換え、最後に元の言葉に戻る。回転寿司みたいに同じ皿が流れ続ける。味は変わらないのに、値段だけが上がる。
「改革って言葉はさ、もう少し具体的に」
部長が言う。僕の中で、改革という単語が紙コップに入った熱いコーヒーみたいに揺れる。こぼしたら終わり。でも持っていないと格好がつかない。
昼。食堂のカレーは今日も同じ味で、同じ値段で、同じ量だった。変わらないって、ありがたい。変わらないから、変わっていく自分に気づける。
向かいの席で、新人の小田がスマホを見ながら笑っている。笑う余裕がある人間は、それだけで眩しい。
「遠野さん、今日の全社会議、何か起きます?」
「起きるよ。胃がね」
「それ、起きないほうがいいやつです」
小田は笑って、カレーを口に運ぶ。僕も笑ってしまう。こういう小さな笑いが、昼の酸素だ。
午後、事件は静かに始まった。
大口の取引先からの問い合わせ。納期の前倒し。仕様の変更。予算の見直し。さらに「念のため、役員にも説明できる形で」と添えられる。念のため、という言葉は、だいたい念じゃ済まない。
僕は資料を直しながら、チャットを飛ばし、電話をつなぎ、あらゆる人の「すぐ」を集めて回った。すぐ、を集めても、時間は増えない。集まるのは疲労だけだ。
途中で、先輩の吉岡が僕の机の端に肘をついた。
「遠野、さっきのフォント、半角全角ズレてたぞ」
「……今、そこですか」
「そこだよ。上の人は、そういうとこだけ見る」
吉岡は言いながら、自分のスマホを見てため息をつく。
「部長がさ、俺に言うんだよ。“お前の説明は長い”って。いやいや、その長い説明をさせる資料を誰が作らせたって話で」
愚痴が流れ込む。上から下へ、水のように。オフィスは水道管だ。詰まると破裂するから、みんな誰かに流す。
僕は笑って頷いた。流れが自分で止まらないのを知っているから。
十六時。全社会議の直前に、部長が僕の席に来た。
「遠野くん、今回の案件、君から説明して」
言葉が耳に入るのに、意味が脳に届くまで遅延があった。電車ならアナウンスが入るやつだ。
「……僕、ですか」
「君が一番把握してる。やれるだろ」
やれるだろ、は命令の仮面をかぶった願望だ。断れば「期待に応えない人」。受ければ「できて当然の人」。どちらに転んでも、僕は僕のままではいられない。
「はい」
口が先に返事をした。顔が送信した。胃は、もうため息しか出していない。
会議室。役員席の前は空気が硬い。背筋を伸ばすと、背骨が「残業」を思い出す。資料を映し、説明を始める。声は出ている。言葉も並んでいる。なのに途中で、頭が真っ白になった。
仕様変更の一箇所。数字が一桁ズレている。
誰かが気づく前に、僕は口を開いた。
「申し訳ありません。ここ、修正が必要です。今の数字だと説明が矛盾します」
会議室が一瞬、静かになった。静けさは味方にも敵にもなる。今日はどっちだ。
部長が眉を動かす。係長が目を細める。役員の一人が、軽く頷いた。
「気づいたなら、その場で直して。理由も添えて」
それだけだった。怒号もない。机を叩く音もない。むしろ静かな許可が下りた。僕は手元のメモを見て、息を吸って、吐いてから言葉を続けた。
数字を直し、理由を説明し、代替案を出す。自分でも驚くほど、口が滑らかだった。白くなった頭に、少しずつ色が戻っていく。さっきまでの恐怖が、別の熱に変わる。逃げたい熱じゃない。踏ん張る熱だ。
会議が終わると、部長が短く言った。
「遠野くん、さっきの判断は良かった。隠さずに出したのが」
「……ありがとうございます」
たった一言で、肩の荷が一個だけ床に落ちた音がした。全部は落ちない。全部落としたら、僕も転ぶ。でも一個落ちるだけで、歩き方は変わる。
席に戻ると、チャットが光っていた。同期の佐伯からだ。
『昇進、決まったってよ。小田が先に係長補佐だって』
画面の文字が、胸に小さな針を刺した。後輩に追い抜かれるやるせなさ。自分の席が、少し狭くなる感じ。
僕は思わず、口の中で便利な言葉を転がした。
口癖として定着しそうで、定着したら終わりそうなやつ。
けれど声に出さなかった。今日は、さっき一回“踏ん張る熱”を使えたからだ。
代わりに、僕はトイレの個室に逃げ込み、手を洗いながら鏡を見た。
ネクタイの結び目が、まだ斜めだった。朝の妥協が残っている。
「斜めでいい」
小さく言ってみたら、妙に楽になった。完璧じゃない自分でも、まだここに立っている。
残業の時間。フロアの照明が半分落ち、キーボードの音だけが増える。増えるのは音だけで、成果は増えない。
吉岡がまた愚痴を流し始め、別の先輩がそれに頷き、僕はその間で書類を整える。
このまま僕も、家に帰って梓に愚痴を流すのだろうか。流したら、梓は聞いてくれるだろう。聞いてくれるから、僕は楽になるだろう。
でも、梓の中に僕の疲労を沈殿させたくない。沈殿は、いつか濁る。
その時、スマホが震えた。梓からのメッセージ。
『今日、遅くなる? 温かいの作って待ってる。無理なら、言ってね』
無理なら、言ってね。
その一文が、僕の胸の針を抜いた。抜いたというより、刺さったままでも呼吸できる位置にずらしてくれた。
僕は返信欄を開き、いつもの「すぐ」を打ちそうになってやめた。
息を一回。吸って、吐いてから打つ。
『遅くなる。二十二時くらい。先に食べてて。帰ったらちゃんと話す』
送信。
送った瞬間、仕事の山が一センチだけ低くなった気がした。山は低くならない。けれど自分の視線が少し上がるだけで、見え方は変わる。
そのあと、僕は一度だけ席を立って、給湯室へ行った。冷えた水をコップに注いで飲む。喉が鳴る。生きている音だけは、裏切らない。
戻る廊下で、エレベーター前の雑談が耳に入った。
「小田くん、早いよね。あの歳でしっかりしてる」
「遠野さんも悪くないけど、まあ、あれは“器用”って感じ」
器用。便利な褒め言葉の顔をした、微妙な評価。
胸がちくりとしたけれど、僕はエレベーターの鏡に映る自分を見て、肩を一度だけ上げ下げした。ここで熱くなっても、誰も得しない。
退社の打刻は二十一時四十八分。自分の席の引き出しを閉める音が、やけに大きく響いた。
ビルを出ると、コンビニの灯りがやさしく見えた。僕は吸い寄せられるように入って、棚の前でしばらく迷った。迷った末に、甘いものを一つと、温かい缶のお茶を二本。
レジの店員が「お疲れさまです」と言った。社交辞令でも、今日は効く。
袋の中で缶が軽く触れ合う音がして、僕は少しだけ笑った。言葉が荒れそうな日は、こういう小さな“丸い音”を持って帰る。
駅へ向かう途中、僕は梓にもう一通だけ送った。
『コンビニで甘いの買った。怒ってない、って証拠』
送ってから、照れくさくなって画面を閉じた。こういう照れは、たぶん僕の中の火種がまだ生きている証拠だ。
終電一歩手前の電車で、僕は座れなかった。立ったまま、窓に映る自分を見る。ネクタイは緩み、髪は崩れ、目の下に今日が溜まっている。
それでも、僕は今日、隠さずに言った。間違いを認めた。直した。理由を出した。代替案を出した。
世界がひっくり返るほどの出来事はなかったけれど、ほんの小さな更新はできた。自分の中で。
家の鍵を回すと、部屋の灯りがついていた。玄関を開けた瞬間、味噌の匂いが来た。湯気が、夜の空気に丸い穴を開ける。
「おかえり」
梓がキッチンから顔を出す。前髪が少し濡れている。さっきまで洗い物をしていたらしい。
「……ただいま」
声が出た。ちゃんと出た。言うだけなのに、今日はそれが大仕事だった。
「疲れてる顔」
「うん。疲れてる」
「じゃあ、先に座って。ご飯、すぐ」
梓はそう言って、僕の肩をぽんと叩いた。二回じゃない。一回。確認の一回。
僕は椅子に座り、湯呑みの温かさを両手で包んだ。熱が掌から腕へ、腕から胸へ移っていく。人間は、こうやって回復する。
「今日さ」僕は言った。「後輩が先に昇進するって聞いた」
「うん」
「悔しかった」
「うん」
「でも、今日の会議で、僕、ミス見つけて言えた」
「えらい」
「えらいって言うなよ、大人に」
「大人ほど言われたほうがいいでしょ。えらい」
梓は味噌汁を置き、僕の前に焼き魚を置いた。魚の皮が少し焦げている。焦げは、失敗じゃない。火が入った証拠だ。
僕は箸を取り、口に運ぶ。塩気がちょうどいい。涙腺に近い味だ。
「ねえ、遠野」
「なに」
「明日の朝、言って」
「何を」
「『行ってきます』って。小さくてもいいから」
「……言ってるじゃん、いつも」
「今日は、返事ができなかった。だから、明日は、私も返す。ちゃんと」
梓は少し笑う。笑う時、肩がふわっと上がる。その動きが、僕の胸の熱を別の形に変える。
燃え尽きる熱じゃない。続けるための火だ。
皿を片付け終えたあと、僕はリビングの隅に置いた古いノートを開いた。新人の頃に買った、薄い手帳。最初のページに、拙い字で書いてある。
「たかが新人でも、夢は描いていい」
今読むと恥ずかしい。けれど、その恥ずかしさが、まだ自分に残っているのが嬉しい。
寝る前、梓がソファでうとうとしていた。僕は毛布をかけて、そっと言う。
「明日も、頑張るよ」
返事はない。けれど梓の口元が、ほんの少しだけ上がった。
翌朝。ネクタイの結び目は、一回で決まった。嫌な予感がした。だから僕は、わざと一度だけ結び直した。自分で悪い運を選ぶみたいで、少し笑える。
玄関で靴を履き、寝室を見て、息を吸う。
「行ってきます」
梓が布団の中から、ちゃんと返す。
「いってらっしゃい」
たったそれだけで、胸の中の火は安定した。
満員電車が押し込んできても、会議が増えても、誰かの愚痴が流れてきても。
僕は僕の速度で、火種を守っていける気がした。




