第29話 柔らかい場所
壁は、まだそこにある。
黒い。
滑らか。
継ぎ目がない。
そして五十秒ごとに、わずかに呼吸している。
0.02Hz。
船体の振動ログと同じ周期。
理央が言う。
「局所応答、ここだけ違います」
窓の外、擦過痕の近く。
氷室が外部カメラを寄せる。
削れた装甲。
その先。
黒い面。
ぱっと見は何も変わらない。
だが。
「振幅、少し大きい」
理央が続ける。
「この範囲だけ、周期応答が強いです」
黒川が聞く。
「どのくらい」
「約1.3倍」
微妙だ。
誤差と言われれば誤差。
だが完全に同じではない。
氷室が低く言う。
「ここ、触れますか」
「船体アームでなら」
充が答える。
「押すだけです」
黒川は短く言う。
「やります」
船体作業アームがゆっくり伸びる。
宇宙では、急ぐ意味はない。
触れる。
それだけでも慎重だ。
先端が黒い壁に近づく。
距離、30センチ。
20。
10。
理央が言う。
「周期、来ます」
五十秒。
呼吸。
0.02Hz。
アームが触れる。
コツ。
小さな接触音。
反発。
ただの壁だ。
氷室が言う。
「硬いですね」
黒川が頷く。
「普通です」
少し安心する。
未知の物体は、大抵もっと変な反応をする。
これはただの固体だ。
少なくとも今は。
棚橋が窓の外を見ながら言う。
「もう少し押します?」
黒川が聞く。
「理由は」
棚橋は肩をすくめる。
「なんとなくです」
氷室が笑う。
「現場判断だな」
黒川は言う。
「5ニュートン」
アームがゆっくり押す。
黒い面。
動かない。
当然だ。
岩でも金属でも、これくらいでは変わらない。
理央が言う。
「周期、次来ます」
50秒。
振動。
船体がわずかに揺れる。
推進ノズル二番のログが、同時に落ちる。
推力低下。
35% → 37%。
充が言う。
「出力、少し吸われました」
その瞬間だった。
氷室が言う。
「……待って」
黒川が窓を見る。
黒い面。
さっきと同じ。
いや。
同じじゃない。
アーム先端が、少し沈んでいる。
棚橋が言う。
「押してます?」
充が答える。
「5ニュートンのままです」
理央の声が低くなる。
「材質応答、変化しています」
黒い面。
金属の反発ではない。
水でもない。
ゴムでもない。
ゆっくり。
本当にゆっくり。
アーム先端が沈む。
氷室が言う。
「柔らかい」
誰も動かない。
壁はさっきまで完全に固かった。
今は違う。
指で押した粘土みたいに。
ゆっくり。
沈んでいる。
理央が急いでログを見る。
「三条件」
誰も言葉を出さない。
理央が続ける。
「圧力」
アーム。
「周期振動」
0.02Hz。
「微小電力」
推進ノズル二番。
吸われている。
沈黙。
棚橋が小さく言う。
「……オシナオスン」
その名前が、船内で初めてここに来てから出る。
黒川は画面を見たまま言う。
「同系統材料かもしれない」
理央がうなずく。
「条件が揃ったときだけ、状態変化」
21話の実験ログが頭の中で重なる。
押す。
揺らす。
少し食わせる。
三条件。
氷室が言う。
「つまり」
黒川が答える。
「開いたわけじゃない」
少し間。
「柔らかくなった」
アームがさらに沈む。
5センチ。
10センチ。
壁が壊れているわけではない。
穴が空いたわけでもない。
ただ。
材料の状態が変わっている。
まるで。
液体の中に押し込んでいるように。
棚橋がぽつりと言う。
「それ、入口なんじゃないですか」
誰も笑わない。
理央が計算する。
「柔化範囲、直径約2メートル」
氷室が言う。
「人、通れるな」
のどかが小さく言う。
「本当に通るんですか」
黒川は答えない。
窓の外。
黒い壁。
その一部だけ。
ゆっくりと。
沈む。
戻らない。
壊れていない。
でも固体でもない。
充が言う。
「推進ノズル二番、出力さらに吸われてます」
理央が言う。
「周期応答、安定」
航田が小さく言う。
「……歓迎されてる?」
誰も断定しない。
歓迎かもしれない。
ただのメンテナンス機構かもしれない。
ただの偶然かもしれない。
分からない。
黒川が言う。
「結論を出します」
全員が見る。
黒川は黒い面を見たまま言う。
「これはドアじゃない」
短く区切る。
「材料です」
もう一度。
「材料が、通れる状態になっている」
氷室が言う。
「つまり」
黒川が答える。
「入口の可能性がある」
沈黙。
巨大構造体。
一体構造。
継ぎ目なし。
その中に。
人が通れる柔らかい場所。
棚橋が小さく言う。
「それいるの?」
誰も答えない。
だが、全員が同じことを考えている。
もしここが入口なら。
この先には。
設備がある。
機械がある。
もしかすると。
故障した場所がある。
黒川が静かに言う。
「準備します」
少し間。
「中を見ます」
窓の外。
黒い壁の一部が、まだゆっくり呼吸している。
0.02Hz。
五十秒。
宇宙の片隅で。
人類は今、
巨大文明の設備の中に入ろうとしていた。




