第2章
日曜日の午後、礼拝堂に残るのは、片付けのために残った数人の会衆と、講壇の脇で沈黙する陳學平だった。彼は最後の祈りを終えた後、講壇の端に指を置いたまま、指先の震えを止められなかった。語るべき言葉は原稿にあったのに、声は思いの半分しか届かなかった。
明輝と美玲が教会を去ってから、会衆の約三分の一が離れた。椅子の並びはところどころに空白を作り、合唱の和声にはぽっかりと穴が開いた。受付の机に置かれた来会者カードの束は薄くなり、献金封筒の箱には触れられていないものが目につく。すべてが、静かに少しずつ、教会が軽くなっていく手触りだった。
その変化の渦中で、學平は会衆代表に推され主任牧師となった。だが、祝福の言葉が並ぶ一方で、不安は空気に混じっていた。特に、三十代の女性、琪琪は、週報の配布を手伝いながら、控えめではない率直さでこう言った。
「學平牧師、すみません、正直に言います。今日のメッセージ……伝わりませんでした。私だけじゃないと思います。こんなんで、教会、大丈夫なんですか?」
周囲の数人が息を呑んだ。言葉が硬い床に落ちた音がしたように感じた。學平は一瞬、視線の置き場所を失い、しかし逃げるまいと思って彼女を見た。
「ご意見、ありがとうございます。受け止めます」
それだけ言うのが精一杯だった。胸の内では、別の声が響いていた。自分は壇上に立つ器ではない。向いていない。皆を守るには、あまりに弱い。
礼拝後、相談室には二組の面談が入っていた。離婚手続きの途中で疲れ切った張麗華。学業と信仰の両立に迷う許智恩。學平は一人ずつ丁寧に話を聴き、必要な連絡先と次の一歩を一緒に確認した。話している間だけは、彼の声は乱れなかった。彼はもともと、講壇よりも、小さな部屋で人の沈黙に寄り添うことに向いていた。
夕方、礼拝堂に戻ると、椅子はすでに整えられ、窓は西日を切り取っていた。學平は講壇の手前に立ち、誰もいない客席に向かって小さな声で説教の一節を繰り返してみた。しかし、言葉は空気に吸われ、心の深部に届かない。彼は目を閉じ、祈った。
「神様、私は恐れています。壇上に立つことも、明日を迎えることも。私の弱さが、教会を壊してしまうのではないかと」
祈りは壁に跳ね返るだけのようで、返事はなかった。耳鳴りのように沈黙が続いた。
その夜、役員会が開かれた。議題は多かった。献金の減少への対応、地域奉仕の継続、青年会の存続、そして主任牧師としての學平の支援体制。会議の最中、琪琪が傍聴席から立ち上がった。
「言わせてください。私は學平牧師が嫌いなわけじゃない。でも、あの先生は人前で話すのが得意じゃないでしょ。私たちは正直に、できないことは分担すべきです。説教は上手い人が助けて、牧会は學平牧師がやる。そういう形だってあるはずです」
室内にざわめきが走る。反対の声も、賛成の声もあった。學平は黙って皆の顔を見た。自分の弱さを認めることが、共同体を守る最初の誠実だと頭では分かっている。だが、主任牧師という肩書は、弱音を許さない重さで肩にのしかかった。
会議の後、教会の玄関先で、許智恩が學平に近づいた。
「牧師先生、今日の面談、ありがとうございました。私、まだ揺れてますけど……先生が聴いてくれたから、少しだけ進めそうです」
その一言が、細い糸のように學平を支えた。けれど、糸は糸だ。重さに耐えるには心許ない。
数日後の水曜祈祷会。學平は詩編を選び、短いメッセージを用意した。読み上げながら、自分の声が誰よりも自分に刺さってくるのを感じる。終わった瞬間、彼は講壇の裏で膝をついた。胸が締め付けられる。吐く息が浅くなる。
「私は、向いていない」
その言葉が初めて、彼の中で否定ではなく事実の宣言として形を得た。絶望は、突然ではなく、静かに満ちる。天井の明かりは白く、礼拝堂の時計は規則正しく時を刻む。彼は額に手を当て、暗闇に落ちないように、ただ呼吸を数えた。
扉の向こうで、足音が止まった。振り向くと、そこに立っていたのは琪琪だった。彼女は気まずそうに視線を逸らし、しかし口調はいつものように真っ直ぐだった。
「……さっきはきついこと言って、ごめんなさい。でも、私、教会が壊れるのが怖いんです。だから、本気で考えたい。どうしたら、みんなで持てる力を出し合えるか」
學平はしばらく言葉を探し、それから小さくうなずいた。
「私も、怖いです。だからこそ、助けが必要です」
それは告白であり、同意でもあった。二人の間に、初めて同じ方向を向くための細い橋が架かった。
夜が深まる。外の山風が木々を渡り、礼拝堂の古い窓枠を微かに鳴らした。減ってしまったはずの椅子列の向こうに、なお残っている光が見える気がした。弱さを中心に置く共同体は可能だろうか。その問いが、學平の胸に小さな火種となって残った。




