22話 数日間の家族
晴子
普段の生活ではまず使うことのない、大きな鍋の中で米を研ぐ。指先に冷たい水の感触が伝わり、10月のひんやりとした空気が肌を撫でる。隣ではチエミさんが、これまた特大の寸胴を木べらでかき混ぜていた。
「ち、チエミさん、これ何合炊くんですか?」
水の音に負けないように声を張ると、チエミさんは少し汗ばんだ額を手の甲で拭いながら答えた。
「20合だね。×3回、かな」
「60合……!」
思わず驚きの声が漏れる。数字としては分かるけれど、実際にこの手で扱うとなると、その量が想像を超えてくる。こんなにたくさん炊いて、本当に捌ききれるのだろうか?
一方で、タカシさんが並べた長机に皿とスプーンを用意していたミキさんは、そんな私の心配をよそに、さらりと提案する。
「余ったらおにぎりにしようよ。それはそれで喜ぶ人多いと思うし、渋滞の車内で食べるのにちょうどいいでしょ?」
「それ、いいね!」
チエミさんが頷き、笑顔を見せた。2人の間には、すでに通じ合うものがあるらしい。
そういえば昨晩、夜遅くまでこの2人は酒を酌み交わしていた。布団の中で、クスクスと笑い声が聞こえてきたのを覚えている。
朝になって、案の定チエミさんの声はいつもより更にガラガラだったけど、それすら彼女らしく思えてくる。
チエミさんの旦那さんとタカシさんは、朝早くから地元の知り合いや消防署、交番へと足を運び、炊き出しをする旨を伝えてきた。途中、自治会から長机や椅子、運動会で使うようなタープも借りてきてくれたおかげで、準備は順調に進んでいった。
やがて、近所の人々や、普段スーパーで働いているパートの女性、その子どもたちまでもが手伝いに加わった。思いつきで始めた炊き出しのはずが、気がつけば、小さな町全体が協力して動き出しているようだった。
昼前、ついにカレーもご飯も完成し、人々が次々と列を成していく。
「いやぁ、助かるよ。こんな時に炊き出しなんて、本当にありがたい。」
カレーの皿を受け取った年配の男性が、しみじみとした口調で言った。
私は思わず、「豚汁のほうが良かったかもしれないな」と心の中で呟く。でも、カレーのスパイスの香りが漂うこの場所は、少しだけ日常の温かさを取り戻しているようにも見えた。
「いえいえ、食べて温まってくださいね!」
チエミさんが、相変わらずの笑顔で応じる。彼女は本当に知り合いが多いらしく、ひっきりなしに誰かに声をかけられていた。
炊き出しには、近所の人だけでなく、渋滞で足止めされた人、ボランティアの人、さらには警察官や消防士の姿もあった。
「はい、お待たせしました!」
私もおにぎりを握る手を止めることなく、次々と皿を並べていく。
横では彩ちゃんがカレーをよそい、チエミさんとミキさんが機敏に動く。私は、これまでの学校行事やアルバイトでは「わりと動ける方」だと思っていたけれど、この2人には到底敵わない。
彼女たちは、ただの手際の良さでは無かった。相手のことを先回りして考え、行動に移せる。しかも、それを当然のようにやってのける。
そんな彼女たちを見ていると、「社会人になれば、私もこんなふうになれるのかな」とぼんやり思った。
行列が途切れたのは午後3時過ぎ。空っぽになった寸胴鍋を眺めながら、ミキさんが感嘆の声を上げる。
「いやぁ、カレー完食ってすごいわね。」
「本当に。まさか全部出るとは思いませんでした。」
彩ちゃんも苦笑しながら、鍋の底をのぞき込んでいる。
朝の時点では「給食か!」とツッコみたくなるほどの量だったのに。
「そりゃ、タダ飯だもん。食べるわよねぇ。」
チエミさんはタオルで汗を拭いながら、ガラガラの声で笑った。
「でも、おいしかったって2回も並んでくれた人もいたし。やっぱり、温かいご飯って大事なんだよ。」
たしかに。地震から2日。たった2日なのに、普段なら当たり前の食事が、今はまるで違う意味を持っている。
「食べられること」って、こんなにも人を安心させるものなんだ。
「さぁ、片付けるわよ!暗くなる前にさっさとやろう!」
チエミさんの掛け声で、私たちは一斉に動き出した。使い終わった食器をまとめ、鍋を洗い、テーブルを片付ける。
夜になると、照明は小さなランタンと車のライト位しかないので真っ暗になってしまう。
ふと空を見上げると、日が傾き始めていた。西の空が、燃えるような朱に染まっている。
その隙間で、ミキさんと彩ちゃんが楽しそうに話し込んでいた。
特に彩ちゃんは、今日1日ずっと生き生きとしていた。
「ありがとう」
そう言われて、照れる彩ちゃんは、絵画レベルで美しかった。同性でも危うく恋に落ちるところだ。
私たちは、今日はもう一晩泊めてもらうつもりだ。
チエミさんは縁もゆかりも無い私たちを、更にはミキさんタカシさん、凪までも家族のように、当たり前のように
「今日も泊まってくでしょ?楽しみねぇ。何食べる?そんなに選択肢無いけど、賑やかだと楽しいわぁ。家の中は真っ暗だけどね」
あんまり嬉しそうに言うものだから、あれ?チエミさんて久しぶりに会った親戚のおばさんだっけ?と錯覚しそうになる。
いつか必ずちゃんとお礼しに来ようと心に決めた。
明日の朝に出発すれば、さすがに夜までには帰れるだろう。
いくらなんでもウチの家族も心配しているだろう。
私は疲労感のせいか満足感か、布団のおかげなのか、停電時ならではの静けさ、暗さのせいなのか、もしくは全部のせいか、普段ではありえない程早い時間なのに、布団に入った瞬間に気を失ったように眠った。
ふと、リビングから漏れる話し声で目を覚ました。
話し声?いやニュースを読み上げる声。ラジオか?
だけどリビングから光が漏れている。朝?いや、これは違う。電気だ!
彩ちゃんはまだ隣の布団で寝ている。
どうせ使えないので電源を切っていたスマホの電源を入れる。
丁度12時を過ぎた所だ。
電波も復旧している!
布団から起き上がりガッツポーズをする。
私たちの世代は物心着いた時からスマホがあるので、電波が無いだけでものすごく不安を感じるのだ。これは嬉しい。
LINEが30件ほど入っている。藤沢は先に復旧していたようだ。
友人や家族、グループラインに現状を報告する。
ついでにSNSも確認して短めの現状報告をした。
昨日からのニュースを確認すると都市部は電気も電波も大分復旧してきたようだ。
部分的に例外もあるようだが。
高速道路、電車、バス等も順次復旧しているようだ。
まだ渋滞はあるだろうが、明日は少し緩和されるだろうか。
たったの三日で電気が復旧するとは!専門的な事は分からないけど、復旧作業をしてくれた人達が頑張ってくれたのだろう。ありがとう。本当に感謝します。と、手を合わせたくなる。
部屋の電気を付けて彩ちゃんを起こす。
もうちょっと寝させてと少し嫌そうだったが、
電気がついてるのを認識した瞬間パチッと目覚めた。
スマホの電源を入れ一心不乱にスマホをいじっている。
リビングに行くとチエミさん夫婦がテレビを見ていた。
しっかりと整頓されたリビングはとても明るかったが、夜中だからだろうか、チエミさん夫婦は元気が無かった。
「あぁ、晴ちゃん。起きたのね。電気良かったわね。」
「そうですね。嬉しいです。でも、変な時間に目覚めちゃいました。」
「なにか飲む?」
「ありがとうございます。頂きます。」
チエミさん宅は水はずっと使用出来たし、オール電化なので、これで完全復旧だ、
暖かいお茶を入れてくれる。
部屋は、家の中は明るくなったのに、チエミさんの表情は暗い。失礼な話だか少し老けたような気すらする。
「…みんな、帰っちゃうわねぇ」
と、ぽつりとこぼす。
テレビの光が、チエミさんの横顔をぼんやりと照らしている。
いつも明るくて、豪快で、どんな状況でも前向きな彼女が、今はまるで少し小さく見えた。「はい。本当にありがとうございました。」
「私は賑やかなのが好きだから。本当に楽しかったわぁ。」
「親戚が集まったみたいだったな」
旦那さんが言う。
「また遊びに来てね」
「はい。必ず来ます」
テレビではニュースキャスターが復旧の状況説明を淡々と続けていた。




