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敗戦1905  作者: 大豪寺凱
95/122

094 北進

 終夜、南方では焼かれた倉庫から非常な勢いで烟や炎が燃え上がった。また、西方でも烟が見え出した。清国人が大切にしていた、祖霊が宿るという小さな森で斧の音が盛んに響いた。鹿砦を構築するためだという。


 一夜明けて2月24日、いよいよ独断で北進しようと医長が決心したところへ、早朝から砲弾は四辺に破裂して、各方向に火炎をあげた。われらは既に砲火に包囲されている。中空に破裂する榴霰弾は次第に私の頭上に近づいている。豆を煮る鍋の如く、くぐもった銃声が盛んに聞こえてきた。渾河の対岸まで日本兵が進んできたようだ。


 われらが出発しようとしたとき、伝令が駆け込んできた。

「軍団命令を伝達します。即刻、北方へ避退せよ、です」

 いまさら何を言いやがると思いはしたが、抗う意味は無い。言われるまでもなく逃げ支度は疾っくに整えてある。直ちに、われらは運動を起こした。


 殿軍の旅団から中隊規模の歩兵が派遣され、われらが位置していた地点に木樽や穀物袋を積み上げて阻止陣地を急造しはじめた。地面が凍って容易に掘ることが出来ぬので、物を積み上げるほか無いのだ。

「さっさと行ってしまえ、この薄鈍(ウスノロ)野郎め」

 と、罵声を投げかけながらも、われらの撤退を掩護してくれるのだ。この間にも後衛の中隊を入れ替えながら、旅団は逐次さがっていくらしい。


 いよいよ榴霰弾の破裂が間近になってきた。われらは北進する。南方からは追い風が強く吹いてきた。阻止陣地の歩兵にとっては向かい風であり、砂塵を含んだ目くらましでもあった。

「長くは保たない、速く(ダワイ)速く(ダワイ)!」

 阻止陣地からの声を背中に受けながら、われらは一目散に北進した。ふと後ろを見ると、風が巻き上げた砂塵のために10歩先が見えなかった。路側には点々と牛馬が斃れ、遺棄した小銃が投げ出され、遅留兵は疲れ切った脚を引きずりつつ、土墳の上に横たわった傷兵に火酒の瓶を与えていた。手当してやりたいが、それどころではない。もはや行進の体を為さない潰乱敗走の類いというべき状況なのだ。


 畑を斜めに突っ切って近づいてきた歩兵大隊がいた。大隊長と思しき乗馬の将校は、

「バノフ大佐を見なかったか?」

 と、われらに向かって叫んだ。バノフ大佐とは聯隊長だろうか。病院付の兵卒が大声で答えた。

「もう何日も姿を見ませぬ」

 馬上の将校は

「ええい、畜生め。まったく不秩序じゃ」

 忌々しそうに言うと、馬首を繞らせて駆け戻って行った。あとで、その兵卒に聞いたところでは、バノフ大佐など知りもしないが、ああ言えば他へ行くだろうと思ったのだそうだ。


 だいぶ日本兵との距離を稼げたと思っていたところで、輜重車が停止した。われらの進路に交叉する横道を、トランスバイカル砲兵中隊の長い列が通過している。彼らは電光の如く、塵埃のなかを小口径砲を牽いて走って行く。馬匹の口、黄色の筋が入った帽子、そして東洋人らしい顔立ちをしたブリヤート人の部隊が駈け去った。


 連絡将校らしき一騎が急速にブリヤート人を追ってきた。

「引き返せ、いまから殿軍戦闘に加わる必要はない。ただちに北進せよ」

 しかし、ブリヤート砲兵の中隊長は従わなかった。

「逃げろと? そのように重要な命令は書面で頂きたい」

 平たい鼻をした中隊長は、その顔立ち、その肌の色ゆえに、ロシア人から蔑視されてきただろう。そんな彼らが、ロシア人の部隊よりもロシアのために戦おうとしている。あるいは後日、敵前逃亡の疑いを受けることを危惧しているのかもしれぬ。それで銃殺にでもなれば不名誉極まりない。それくらいなら、いま戦って死のう……というように考えているのかと、私は彼らの胸中を推し量った。

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