092 退軍
無慈悲に刻は流れ行き「今日」は「昨日」へと移った。地図上の位置に存在しなかった目的地は所在不明のまま、われらは軍団司令部から別命が下るのを待った。軍団司令部の現在地が不明であるゆえ、こちらから問い合わせることは出来かねる。そして、天幕は撒かれ、衛生資材は梱包したまま、われらは深夜、酷寒の屋外で徒然に暮らしている。
奉天旧市街の囲壁は青い空際に映じてありありと見える。旧市街周辺の村落は昨日まで無傷で残っていたが、いまや次第に家屋の戸が破られ、掠奪が始まっている。樹齢400年に達する大木は、ロシア兵の斧によって倒された。清国人たちは親切かつ謙譲なる顔つきで将校に掠奪の禁止を願ったが、将校は冷淡に
「プーツンダー」
と、答えた。暫し沈黙したあとようやく下手糞な発音を聞き分けた清国人は、
「不知道?」
と、愉快そうに問い、かつ笑いながら頷いた。そのとき奉天の北方からも南方からも砲声が轟いていた。ゆえに奉天は包囲されつつあると誰にもわかる。あと少しの辛抱でロシア人は奉天から去るということを清国人も悟っているのだ。どうせ、おまえらロシア人は負け戦で、今日にも逃げて行くのじゃないかと。
そのとおりなのだ。輜重縦列は絶え間なく北方へ向けて奉天旧市街を通過して行く。その間も戦闘は続き、日々数千の傷者が発生している。しかし、われらの遊動野戦病院は逃げ支度のまま、傷者を収容することは出来ぬ。それは他の野戦病院も同様だ。わが輜重車に掲げた病院旗を目当てに、傷者を搬送してきた馬車があった。
「医官殿、傷者を収容願います」
と、依頼されても受け入れることは出来ぬ。
「昨日からずっと受け入れ先を探しているのです」
私は、困り果てた顔をした下士官に
「何処から来たか」
と、尋ねてみた。
「蘇家屯から」
わが病院とは縁浅からぬ地名を聞いて驚き、いくつか伝手を考えても見たが、どうにも頼れる病院は思い浮かばなかった。
「力になれず済まない」
そう言って、私は彼らを送り出すほかなかった。
間断なく続く輜重車に混じって、歩兵縦隊が北方へ行進しはじめた。砲声の範囲は狭くなって、日本軍の包囲の環が縮まってきたことを感じた。おそらく日本軍は奉天市街地の都市機能を温存しようとして砲弾を降らせない様にしているのだろうが、その気になれば例の巨弾を放って無人の荒野に変えてしまうことも出来るだろう。
われわれが待機する場所の隣家に住む若い清国人は、大胆かつ狡猾そうな顔つきをしている。その若者が10年前の日清戦争を子供の頃に体験しており、当時は清国軍が日本軍に圧倒された。その清国兵と同じ目に、いまロシア兵が遭っているのだと、聞き取りにくいロシア語で物語った。彼は遠慮なしに私の肩を叩き、そして行進する歩兵を指し示して
「あのときと同じだ」
と、転げ回るようにして笑った。
戸外で挽き臼を回していた老人は、杓子で地面に落ちた黄梁を念入りに拾い集めて粉を挽いていた。この黄梁は、われらの馬糧を運搬中に零れ落ちたものらしかった。彼は杓子を持ちながら土塀の上に首を差し出して、今しも埃の中を行進している軍隊を眺めている。彼の円い顔は宛然憤怒の相を変じて「良い気味だ」と言わぬばかりの喜悦の情が窺えた。しかし、私の視線に気づくと、直ぐに素知らぬ風に、厭そうな顔をして見せた。




