070 対峙
戦況が膠着状態に陥って数ヶ月が過ぎた。その間に、わがロシア軍は、たった一本の単線鉄道を経て本国からの増援を招致し続けた。そして、数十万人に膨れ上がった将兵が戦場で日常を過ごすために、大量の物資をも運ばねばならず、もうそろそろ鉄道は能力の限界を迎えるだろう。
奉天南方に於いては、対峙する両軍が、恰も要塞の如く堅固なる陣地を構築し、その双方ともが重砲を以て武装せられている。わがロシア軍においても奉天正面には散兵壕、角面堡、鋸歯形堡が形成され、それらは交通壕によって相互に連絡した。両軍とも土竜の如く飽きもせず土を掘り続けたのだ。而して塹壕の兵卒は、迂闊に立ち上がることも出来ずにいた。わずかでも頭を出せば、たちまち敵陣から銃弾が飛んでくる。
天は寒く、河水は結氷し、地面は固く凍った。いわゆる塹壕足によって、塹壕に留まる将兵の脚は腫れ上がり、筋力が弱まる。ゆえに頻繁な退息が必要となるが、宿営地にさがったところで、火酒を飲むか、骨牌博奕に興ずる他に楽しみは何も無い。よしんば外出が許可されたとて、酷寒のなか破壊され尽くした村々のほか見るべきものは一つとて無い。
奉天市街まで足を伸ばすと、身なりを整えた清国人が通りかかる将校の耳に何事かを囁いては、次々に美麗な彫刻が施された建物に誘い込んだ。そこには甚だ綺麗な清国女性がいて「一時間待てば同衾できる」と勧誘するのだと、誘い込まれた将校から聞いた。
「東洋人と致してみたいと思わぬでもなかったが……」
性病を警戒して、勧誘を断ったのだそうだ。
先日、旅順が陥落したとの確報が伝達されて以来、軍の気勢は実に憂鬱で、かつまた陰気だ。勝利を固く信じている者は至って少ない。司令部の参謀たちは近日中に何千の増援を受けるか、また、その増員のために食料弾薬の備蓄を如何程積み増すべきかを計算した。増援と充分な弾薬備蓄とで、士気を鼓舞せんとしたわけだが、果たして効果の程は疑わしい。
それというのも、旅順が陥落したからだ。
旅順に向けて回航されつつあったバルチック艦隊は、いよいよ東洋へ近づいたとのことだが、その目的地だった旅順が日本軍の手に落ちた。行き先はウラジオストックに変更され、なお航海中とのことだが、ウラジオストックは海面が凍結するため、春の到来を待たねば入港できぬ。となれば、バルチック艦隊が来るよりも、旅順を陥落させたノギ軍が奉天正面に移動してくる方が早い。ノギ軍が奉天正面でオオヤマ軍と合したとき、決戦の期は熟すだろう。
否、決戦の前にすべきことがある。日本と和平を結ぶことだ。しかし、それは現地軍の一存で出来ることでは無い。われらが最高司令官クロパトキンが、新聞記者の求めに応じて語ったところによると
「いまの戦争は、帝都からの電報で遣るので難しい」
ということだった。古の名将たちは遠征に出るとき戦争の全権を委ねられた。彼の英雄アレクサンドル・スヴォーロフは己の裁量で存分に戦った。そして、七つの大戦に臨み、常に勝ち続け、わずか一敗も喫することはなかった。しかし、スヴォーロフ将軍がアルプス越えで世界の耳目を聳動した時代は、もはや百年の時を隔てている。いまや20世紀、時代は変わったのだ。




