006 自棄
鉄道による輸送開始を待つ間、わが軍団が駐屯する都市では恐怖と驚慌が充満していた。待機中の応召兵の群れは騒擾しつつ市中を徘徊し、通りかかる人から金品を奪うやら官営酒屋を叩き壊すやら狼藉の限りを尽くし、そして、異口同音に
「警察を呼べ!」
と、叫ぶ。戦地へ送られるより、刑務所に入ることを望んでいるのだ。
ある日の夕刻、煉瓦製造場から退勤する女工たちを路上で無理に引き留めつつ散々に侮辱した応召兵の一団を見た。その現場近くの市場では
「そのうち兵卒が一揆を起こすだろう」
という噂が流れ始めていた。
極東からの報道は絶え間なく日本軍の前進を伝えながら、わが軍の青年将校による個人的武功の幾つかが例によって仰々しく書き立てられていた。以前には「日本兵は島国育ちゆえ内陸での戦いを不得手とする」と報道されたが、陸戦においても日本軍は優勢を示している。
それについて、新聞では「日本列島は山がちな地形で平地が少ししかないことが原因なのだ」と論じていた。現在まで戦場となったのは山地が多いから、平野部での大規模会戦の機会があれば「わがコサック騎兵の蹄鉄に日本兵は蹂躙されるばかりとなるに違いない」と主張していた。
そのうえさらに、「日本は財力に乏しく、人口もまた多くない」ことが、紙上で繰りかえし論じられていた。ゆえに、遼陽において日本軍を待ち構え、決戦によって出血を強要すれば、日本軍は弾薬や人員の消耗に耐えられないだろう、ということだった。
これまでのクロパトキン司令官による度重なる退却命令は、日本軍を平野部へ誘き寄せるためのことであると、戦況を楽観する記事もあった。
わが軍団は長く鉄道輸送の順番待ちをしているわけだが、将校らの予測するところによると「来るべき遼陽での日本軍との決戦に、わが軍団は参加できないだろう」とのことだ。そして、わが軍団が到着する前に「戦場で変化が起こる」と予言した。その変化というものが、どういうものなのか、軍事の門外漢である私には察することができなかった。
8月上旬、わが軍団は逐次、輸送梯団を形成して極東へ鉄道輸送されることが決まった。出発が予告されると、ある将校は仮の宿舎であるホテルで、自らの頭部に拳銃弾を撃ち込んだ。旧市街では黒パンを買った兵卒が「パンを切るから」と包丁を借りると、いきなり自分の喉笛を掻き切った。また、兵営の裏では抱え込んだ小銃の引き金を足の親指で引くことで自殺した兵卒がいた。
停車場を覗いて見ると、第一梯隊を乗せた列車が、まさに発車せんとするところだった。ホームには見送りの群衆がひしめいていた。
ホームに仮設された演壇から、師団長が訓示するのは、
「神に感謝し、神の加護を得て戦い、神の意志に従って勝利せよ」
とのことだった。
ホーム上で整列して聞いているのは佐官以上の将校ばかりで、車中の兵卒らは大半が泥酔しており、かつまた見送り人のなかに家族や知人を探すのに夢中であるため、まったく訓示に関心を示さずにいた。
「乗車!」
輸送指揮官の声が響き渡り、ホームに残っていた将校たちが客車に飛び乗ると、第一梯隊の列車は、いよいよ動きはじめた。
憲兵は喚き散らしながら、汽車にすがる群衆を引き剥がした。蒸留酒の小瓶を窓から差し入れようとした兵卒は、突然、目の前に現れた憲兵隊長の手で小瓶をかっさらわれてしまった。小瓶は足下に叩きつけられ、大きな音を立てて割れた。
「アンタに俺の酒瓶を割る権限があるのかよぉ」
と、へべれけの兵卒が憲兵隊長に対して居直ると、車内の兵卒たちから喝采を受けた。憲兵隊長は無言のまま、反抗した兵卒の横面を張った。
列車は次第に速度を増し、見送り人も、車中の泥酔した兵卒たちも、みな「ウラー」を叫んだ。出征した下士官の妻である妊婦は、片手で抱いていた幼児を取り落としてしまい、そばに居合わせた別の婦人が慌てて幼児を抱き上げると、二人の婦人は相抱いて、すすり泣くばかりだ。
汽車は長々しく汽笛を響かせながら、遙か極東を目指して走り去った。