062 異動
「健全なる将校は第一線に立つべし」
最高司令官の方針は、現地軍一般に広く告知された。それによって、現地軍の後方機関では至る処、恐慌状態に陥ることとなった。
ここ数日の間、医長は出歩いてばかりいる。主計官の第一線部隊への異動を阻むため、大いに尽力しているのだ。日頃、主計官を怠け者と呼び、言われなければ働こうとしない奴だと不満を公言している医長が、そのままの人物評を第一線部隊に広めていった。
「あんな気の利かぬ者に、正面勤務は務まりますまいて」
と、医長は遠慮なしに言いふらして回った。
実際、私も主計官について仕事熱心とは言い難いと感じることが多い。だが、主計官が怠惰であるために病院の業務が救われている面もある。師団司令部や軍団司令部、または最高司令官からの命令であっても、彼は実行に移すまで時間をかける。それは何か考えることがあってのことではなく、ただ単に面倒に思ってのことだが、例によって朝令暮改が罷り通るゆえ、命令の実行を遷延させたことで余計な手間が省けたことも再三に及んだ。
しかし、医長が主計官を手放そうとしないのは、なにより錬金術を用いる都合からだろう。怠惰なる主計官は、自身の蓄財に対しても怠惰であり、医長の命令に依らない自己の判断で不正な会計処理をする場合、たいがいは面倒な手間を省くためであって、私腹を肥やすためではなかった。そして、医長の不正に手を貸すのも、医長に抗うのが面倒だからだろう。その点、彼は正直者で、医長から若干のおこぼれを頂戴するのも、断った方が面倒になると悟っているからに違いない。ともあれ、医長からすれば、錬金術の助手として得難い人材なのだ。
主計官に対し一ヶ月以内に転属の辞令が出るだろうと師団司令部から内示された段階で、後任として負傷した将校が治療を兼ねて病院に配属された。しかし、この負傷将校は会計事務を経験したことがなく、引き継ぎ業務は難航した。長きに及ぶ引き継ぎ業務と併行して病院で丁寧に治療したことにより、その将校は全快してしまった。彼は第一線部隊に戻ることを志願し、それによって主計官の異動は沙汰止みになった。
後方機関の人事異動は、よほど難しいことのようだ。病院の看護卒が、戦地昇任で医官に取り立てられることはあり得ないのと同様に、法務官など高い専門性を要求される部署も素人にやらせるわけには行かぬ。会計処理に関しても社会常識の範囲を超えた知識が要求される。主計官の後任となるべく赴任してきた負傷将校にしても、伝票と帳簿の整合性を保つという基本を理解するのにも酷く難儀していた。怠惰とはいえ主計官は会計処理の専門家であることを、後任に未経験の素人が来たことで思い知らされた。
後方諸機関が何処も一様に配属された将校を手放そうとはしなかった理由は、斯くの如しだ。実務を通して一人前に育てた専門家を、易々と手放したくはないからだ。
スルタノフの野戦病院では主計官が正面勤務に転換されたと聞いた。もちろん軍団長の覚えめでたきスルタノフにとって、その異動を阻止するなどは容易なことであったろう。しかし、スルタノフは彼のために運動してやる必要を感じなかったと見える。わが医長にとって主計官は余人を以て代えがたい人材だったのに対し、錬金術のスタイルが異なるスルタノフにとって主計官は誰であろうが構わない存在だったということだ。
後方勤務であれば屋根、壁を備えた環境で充分な睡眠時間を確保し、かつまた給養も不足ない。健全な将校たちは、結局のところ現在の椅子に座り続けることだろう。後方勤務の将校を第一線部隊に配置転換せよという最高司令官の命令は、如何にも妙案のように思えるが、後方機関に要求される高い専門性を考えれば、素人である兵科士官を充てようとすることは机上の空論に等しいのだ。




