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敗戦1905  作者: 大豪寺凱
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056 退息

 わが病院を仮設した蘇家屯に、戦闘線から歩兵一個聯隊が休宿のために後退してきた。西天が薄橙色に輝いていた頃合いで、毛足を長く突っ立てた毛皮帽を被り、肩に銃を担いだ兵卒たちの列が黒々として影絵の如く、夕焼けのなかで行進していく。


 歩調をとりつつ行進する兵卒たちは、不思議に思えるほど蹌踉(ふらふら)としていた。そして、咳をする声が絶え間ない。その咳は咽喉が乾いて突き出すような甲高い音で、それまで私は聞いたことが無い種類の咳だった。驚いたことに、この聯隊の兵卒ほぼ全員が入院すべき病者なのだった。


 蓋し、この聯隊の兵卒は身体の不調を自覚したとて、入院の許可を得られずして塹壕に留まり続け、部隊みな悉く病兵ばかりと成り果てたものと察した。入院に及ばざる軽症者は、ざっと見て10人とは居ない。


 会戦の最中にあっては砲弾の滝壺と化した塹壕で、幸いにも挽肉にならず生き残った兵卒たちが、氷雨に打たれ、泥濘に足を埋め、斯くも残忍冷酷な扱いを受けているのだ。平素から各級指揮官は、兵卒たちが勤務に就けるか否かのみを考えている。それは軍隊言葉でいう「員数を合わせる」ということであり、報告書に記載する現在員の数を減らさないことのみ気遣い、その他のことに無頓着なのだ。


 それら中隊長や大隊長という指揮官たちの上に立つ聯隊長からすれば、配下の兵卒たちが再び砲煙弾雨のなかで戦力となり得るかを真剣に考えねばならぬ。数ばかり揃っても病兵ばかりが残っている現状を見れば、部隊まるごとの退息を決断したのも当然の結論だ。聯隊長が「退がれ」と命ずる分には、指揮官たちも自分の失点にならぬゆえ異存は無かろう。


 私としては、これら兵卒たちすべてが入院を要すると判断する。だが、わが病院には全員を受け入れるほどの収容力がない。また、薬品も足りない。とうてい全員を治療することなど出来はしないのだ。さりとて後送列車に引き継ぐには、「短期間で快復を望めないこと」という条件が要る。もし病床があって、投薬も充分に出来るなら数日間の入院で、この聯隊の病兵は多くが快復するだろうし、後送列車の医官も同様に診るだろう。つまり、後送は受け入れられまい。そうなると、われわれ野戦病院の医官としては、収容しきれぬ患者を可能な限り原隊に戻すよう考えざるを得ない。


 ところが、病兵を戻された指揮官としては、戻された兵卒が「勤務に堪えるや否や」が問題であり、足取りすら覚束(おぼつか)ぬ状態で、ろくに治療もされず戻されたのでは迷惑千万だということで、次第に問題視されはじめた。そして、とうとう各野戦病院および現地軍衛生官衙に対し、最高司令官クロパトキン大将から次の命令が下った。


命令第9060号

 最高司令官は命ず。各病院より原隊に復帰する兵卒の多数に就きて、勤務に堪えざる者、もしくは疾病の猶快復せざる者、非常に多し。各病院ならびに衛生機関は、爾後、病兵を原隊に復帰せしむるに際し、周到なる診察を為すよう充分に注意すべし。


 そのような命令が衛生総監やら野戦衛生長官やらの頭越しに、最高司令官から直々に各病院へ達せられるとは、いまだに軍隊に慣れぬ私でさえ奇態なことだと感じたものだ。言い換えれば、最高司令官が病者の扱いについて、末端の医官たちに責任を持つよう直々に指導・教育したということなのだ。


 医師としての資格を有する野戦衛生長官ならば気づかぬはずもない構造的な問題を放置した挙げ句、われわれ医官に対する具体的な指示を出さずにいた怠慢さを、最高司令官が認めたということでもあろう。

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