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敗戦1905  作者: 大豪寺凱
55/122

054 奥儀

 わが師団の歩兵一個聯隊が戦闘線から後退し、わが病院の位置する村落で退息するために移ってきた。塹壕は人が生活すべき場ではないゆえ、交替で順繰りに舎営させてやらねばならぬ。さもなくば兵卒たちが呼吸器系感染症やリウマチ性疾患に罹り、戦力を損なうことになろう。後退してきた聯隊は、既に長期に亘って戦闘を重ねてきており、休養が必要だった。


 さて、彼らは真っ先に後退を許されたが、まず破壊された家屋を修繕せねばならなかった。住民は避難していて修繕を依頼できる職人がおらず、それら修繕は兵卒によって実施される。ゆえに工賃は不要だが、建材の調達が必要だ。この任務で主役となる主計将校たちを指揮するのは、如何にも叩き上げらしい会計科長だった。


 われらが医長は、肥大した堂々たる体躯の会計科長を晩餐に招待した。けちんぼダヴィドフとも称される、吝嗇を以て知られる医長が、この客人のために惜しまず金を掛け、ハルピンの商店から取り寄せた葡萄酒や果実酒で盛んに馳走したのには驚いた。酩酊した会計科長は彼の聯隊に於ける錬金術の秘法を、さも自慢気に語り始めた。


「建材を買う前に、まず駄馬が必要です」

 最初に馬を20頭ほど買い入れる。その馬たちを移送中に、たまさか日本軍の砲弾が飛来して15頭が死んだ……ということにすれば、戦闘による損耗は日常茶飯事ゆえ聯隊長とて報告を信じて署名するだろう。だから、実際に買うのは5頭で良いということだった。ただし、その差額を会計科長の懐に入れるのではない。極東では牛肉が手に入れにくく、高価であるゆえに給養帳に載せ難い。必ずや会計監査に際して「牛肉の多用は贅沢すぎる」と指摘されるだろう。それゆえ

「わが聯隊には、帳簿外の資産として牡牛を何頭か常備しています」

 ということが、会計科長が自慢する手腕なのだ。それを聞いた医長は、末席にいた主計官を睨み付け、辛抱堪らず言葉を発した。

「わが病院にも、たしか給養帳に記載されていない牡牛が3頭おったな」

 主計官は顔を伏せて沈黙するばかりだった。


 会計科長は酔って益々饒舌になった。われらが医長と主計官は、話上手な教師の授業を受ける生徒のように、熱心に錬金術の秘法について謹聴した。いよいよ話題が奥儀の伝授に移ると、医長は主計官助手および主計科書記の二人を退席させてしまった。私を含めた医官が残されたのは、会計手続の詳細について基本的知識が不足しているからだろう。要は、聞いても内容を理解できぬと思われて、留め置かれたのだ。


 酒宴を終えて会計科長を見送ったのち、医官を含めた将校待遇の者たちで茶を飲んでいたが、その席で医長は戦争の見通しを語った。

「この厳寒期は自然休戦となろうから旅順要塞は来春まで保つだろう。もう直に第16軍団が到着する。そうしたらロシア軍は攻勢に転ずる。そのとき日本軍は奉天と旅順の双方を相手にせねばならぬのじゃ」


 そう巧く行くものかと思ったのは私だけではなかった。医官シャンツェルは酒臭い息を吐きながら

「なんだ、この泥棒ダヴィドフめが。ロシア軍の攻勢も糞もあるものか」

 と、息巻いた。医長は、月毎に1500ルーブルほど本国の留守宅へ送金していると噂されていた。俸給表を見る限り、医長の月給は500ルーブルだ。その差額1000ルーブルを、どうやって捻出しているかと女房から問われたとき、医長は何と答えるつもりか。子供らが父親の所業を知って恥じないとでも思うのかと、諄く問いかけ続けた。


「君の物言いは正直だな」

 と、割り込んだのは医官セルジュコフだった。一同が、次に彼が何を言うのかと注目するなかで、ゆっくりと黙ったまま軍服を脱いで部屋着に着替えた。そのとき前線から一発の砲声が響き、続いて銃声も広がっていった。夜戦が始まったのだ。

「傷者受け入れ準備をなせ」

 医長は厳かに命じ、私は酔いを覚ますため洗面所で顔を洗った。

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