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敗戦1905  作者: 大豪寺凱
48/122

047 楽観

 大いなる二つの波濤が激しく海面をうねらせたかのような会戦は、波が静まってみれば、両軍ともに得るところ無く、失うばかりの結果となった。戦線に若干の変更はあれど、ロシア軍も日本軍も概ね旧位置を保持する結果となった。


 実のところ、最高司令官クロパトキンは戦線を大きく押し返すことを企図して攻勢に出た。あわよくば旅順との連絡を回復させようとまで考えていたようだが、その結果が旧位置の保持だったことは、ほとんど敗北に等しいと言わねばなるまい。だが、わがロシア軍の将兵は、これまでの会戦とは異なり、戦線を後退せざりしことを嘉とした。


 わが病院に入院中の将校らは、沙河会戦を自ら評して

「はじめて戦線を持ち堪えた」

 と、みな主張した。

 日本と戦いはじめて以来、会戦と呼ばれるほど大規模な戦闘では、悉くロシア軍は後退してきた。しかし、このたびの沙河会戦では概ね旧位置を保ち、後退はしなかった。そして、これからはロシア軍が前進し、日本軍を後退させるのだと言って、自分たちの士気を鼓舞した。要は、この戦争の局面に大なる変化が現れる、その兆しが見えたというのだ。


 兵科士官のいう変化と唱えるものが如何なるものか、軍医である私にとっては理解し難いことだが、ほどなく各師団の野戦病院に大なる変化が訪れることは疑いない。いまや砲声は稀に聞こえる程度となった。病院に担送される傷者は少なくなり、これからは病者が増えるのだ。連日の雨によって塹壕は水溜まりと化し、最前線の将兵は膝まで冷たい泥水に浸かっているからだ。


 両軍とも息切れしたとはいえ、まだ最前線では緊張が持続している。塹壕から頭を出せば遙か彼方の敵陣から狙撃を受ける。ゆえに、最前線の将兵は塹壕のなかで身を屈しておらねばならず、冷たい泥水に足を浸し続ける。当然のことながら、気管支炎などの呼吸器感染症や、リウマチ性疾患の病者が出る。このまま厳冬期に長対陣となるならば、その間は敵よりも病気との闘いになるだろう。


 いわゆる塹壕足は恐ろしいものだ。凍傷に似た症状で、毛細血管の機能低下と壊死が起こり、治療せずに放置すると多くは壊疽となり、その場合には足を切断せねばならない。凍傷と異なるのは、やや冷たいと感じる程度の水温でも長時間漬けていれば症状が現れることだ。この塹壕足の症例は、ナポレオン戦争以来の蓄積があり、有効な予防法は靴を脱いで裸足になることだとされるが、最前線の将兵にとって現実的ではない。そんなことを医学書から拾い読みしていたところへ、看護卒の一人が大急ぎで駆け込んできた。


「吉報です!」

 なんでも日本軍の砲兵陣地を乗っ取り、最新型の野砲を鹵獲したという。得るところ無き沙河会戦において、砲兵陣地まるごと略取したというのは非常な大殊勲と評すべきことだ。


 入院中の将校は、この看護卒の吉報を聞いて

「やはり、この戦争に大なる変化が訪れたのだ!」

 と、強く断言した。負け続きの戦争で、一度でも勝利を得れば流れが変わるのだと力説する。

「わがロシア軍は、極東へ送りきれないほど、ほとんど無尽蔵の兵力が本国にある。対して、日本の本国には送るべき兵力が無い」

 という一面の事実を根拠として、今後の見通しは明るいという。


 まもなく厳冬期が訪れ、両軍は対峙したまま越冬するだろう。そして、その数ヶ月の間、われわれは本国からの増援を蓄積することで、日本軍を兵力で圧倒してしまうだろう。果たして、それを日本軍が座視するものだろうか。

「まあ、見ていなされ。日本軍は春の到来を待たずに、必ず仕掛けてくる。そのときこそ、寒さに慣れたロシア軍が有利に戦うことが出来るのですぞ」


 厳冬期の戦いではロシア軍が有利だということには、誰も異を唱えず、賛同する者は多かった。しかし、ただ俯いて沈黙した将校もいた。わが病院が満州に到着する以前、遼陽会戦で武勲を挙げた若い将校だ。日本人は山地に慣れ、平野に慣れないという説を信じ、勝利は疑いないと平野部での決戦に臨んだ。そして、意外にも苦戦しながら武勲を挙げたものの、いまは体調不良を訴えて野戦病院にいる。その表情から察せられるのは、わが軍有利という情報に対する不信感だった。


 はたして冬将軍は、日本軍にのみ災厄を齎すのか。そんなことはあるまい。いまも、塹壕足に苦しむロシア兵が現に居るのだ。


 ちなみに、日本軍から鹵獲した野砲は駐退復座機を装備した新型で、わが軍のM1902 76mm師団砲に酷似していると耳にしたが、実のところ、それらは紛れもないロシア製であると判明した。わが軍の野砲を日本軍が鹵獲し、撤退する際に一部を破壊したうえで放棄したものだったそうだ。

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