037 遊動
絶え間ない砲声ばかりでなく、小銃射撃の音が特に激しくなった日、伝令騎兵が飛び込んできて、司令部は何処かと尋ねた。われわれ病院勤務者の誰もが師団司令部が何処なのかを知らない。誰に訊いても「判らない」と答える。どうやら指揮系統が混乱を来しているようだ。
伝騎の言うところでは、われわれの右翼を迂回した日本軍の一部が、わが軍の中央を突き抜けようとしつつあるらしい。それを阻止せんとして、いまや前線は力戦奮闘しているということだった。伝騎は師団司令部を探すため、馬首をめぐらせて走り去った。
夕刻、わが病院に宛てた軍司令官からの命令が届いた。軍団司令部と師団司令部の頭越しとは、また異例のことだ。その命令によれば、沙河停車場の傍らに病院を開設せよということだ。その地域は、すでに最前線となっており、頻りに日本軍の榴霰弾が破裂して、塹壕から一歩も出られない状況だという。だが、軍司令官直々の命令とあらば、その地点へ行かねばならない。
同じ命令を受けたスルタノフは、苛立ちながら地図に見入っていた。彼が言うには、遊動野戦病院は最前線から一定の距離を置いて開設せねばならぬと規定されているという。にも拘わらず、両軍が衝突する最前線に病院を開設しろと命令されたわけだ。
「君、これを見ろ」
と、スルタノフは師団編制表を私に突きつけた。それによれば、
・各師団毎に野戦病院の定数は4とする
だが、実際には各師団2ずつだ。
・野戦病院は患者200名を収容する
実際には20名収容の天幕が三つしかない。
・後方へ一日行程の地点まで患者を輸送する能力が付与される
これも馬車の数が充分ではない。
・定員は、士官1 医官4 看護師9 主計官薬剤官等4 看護卒65 兵卒33
わが病院の兵科士官は欠員だし、医官は4名いるが看護師は半分だ。
「よりにもよって、かくも非力な病院を最前線に出してどうする」
スルタノフが不可解に思うのも当然だった。わが師団の野戦病院は、戦闘による損耗が無いにも拘わらず、はじめから能力は半分しか与えられていない。そんな病院を最前線に送り出すということは、入院を要する重傷者を、地獄の底へ留め置いておけ、というのも同然だ。ともあれ命令は下った。なにはどうあれ行かねばならぬのだ。われわれ医官は、戦死した場合に家族へ宛てて報知すべく、遺書を急いで認め、同僚と互いに託し合った。
その間にも飛び来る榴弾が破裂する音や、銃声もまた頻りに響いた。私は、緊張しながらも、不思議と嬉しく思い、かつまた心に翼が生えたようだった。あの勝手に出て行った兵卒たちの気持ちが、いま理解できた。戦闘線に立ちたい。いま、私は心からそう願っている。
女の兄貴と渾名された男装の特志婦人は、鞍の代わりに布一枚で背を覆っただけの馬に跨がり、好奇の目を輝かしながら、暮色蒼然たる空に、絶え間なく閃く電光の如き榴霰弾の破裂を眺めていた。
このたびの移動は、鉄道の線路に沿って南進するので道に迷うことはない。途中、至る所に折れた電信柱や千切れた鉄線が散らばっていて、いよいよ最前線を間近に感じる時が来た。そして、まだ目的地に到達せぬうちに、伝騎が追及してきた。
「野戦病院宛の軍団司令部からの命令書を伝達します」
と、封書を差し出した。
新命令は「沙河停車場より蘇家屯停車場付近の旧位置へ後退すべし」ということだった。われわれは沙河停車場に達していなかったが、軍団司令部では到着していると見做して退却を命じているのだった。どうやら、わが軍は退却しつつあるらしい。命令とあらば来た道を戻るほかない。われわれは直ちに反転したが、女の兄貴は昂奮した眼に涙を浮かべながら、何度も戦場の方を振り返っていた。




