029 視察
当直明けの朝、外の空気を吸いに出ると、同僚医官のセルジュコフが将官に呼びつけられているところだった。
「ハルピンから総督が視察に来るゆえ、国旗を掲揚しなさい」
と、命じているのは軍医総監らしい。たまさか外を歩いていて、とてつもない大物に呼びつけられたのだ。
しばらくすると、兵卒たちが廠舎の前の道路を掃き清め、砂を撒き、廠舎の入口に棹を立て、赤十字旗と国旗が掲げられたが、ほどなく作業は主計官がセルジュコフから引き継いだ。あるいは出世の糸口とでも思ったか、主計官は忠実やかに陣頭指揮を執った。作業から解放されたセルジュコフは、部屋に戻って寝台に横たわった。
「なあ、君。軍隊には上官というのが多すぎてな、下っ端の医官など散歩の犬のようだと思わぬか? ちょっと外へ出ると周りから頻りに声がかかり、いちいち尻尾を振ってやらねばならぬのじゃ」
寝そべりながらセルジュコフは言った。予備役召集ゆえに軍隊内部の事情に暗いのは、私も同じだった。階級章を見ても、否、どこに着けているのが階級章なのかさえ、すぐには判らない。将官なのか、佐官なのかさえ、容易には見分けがつかない。
「この前、受付の前を通りかかったら、軍袴に赤い筋が入ったのを穿いているのを見て、てっきり上官かと思うて姿勢を正して名乗ろうとしたら、向こうの方が不動の姿勢をとって敬礼したんだ」
そのときセルジュコフが見たのはコサック騎兵の一兵卒だったらしい。
「ああ、もう厭だ、厭だ」
嘆息しつつセルジュコフは、前線の方が良いかもしれないと言った。
「最前線の仮繃帯所は天幕だし、火線救護は大忙しだと聞くがなぁ」
と、私が言うと
「こういう後方にいては、たくさん上官が居て厭だ。天幕の中で凍えていても、此処よりは居心地が好さそうだ」
そのようにセルジュコフは前線行きを熱望した。
私が休憩時間に舎外へ出て畑の中を歩いていると、灰色の廠舎の外観は美しく掃除され、旗は風に吹かれてパタパタと鳴っていた。建物の内部は、どう誤魔化すつもりなのか。殊に、あの外便所など内部を見せるわけには行くまい。だが、私はその問題に取り組むべき立場にない。母屋にしても、寒風が吹き込むなか、患者は藁布団の上で土埃に塗れた外套に包まって寝ている。薄汚れた外套を剥ぎとったとしても、垢じみて臭くなった襦袢を着ているのが知れてしまう。洗濯が充分には出来ないせいで、ろくに着替えもさせられないのだ。
翌日は病院列車による後送が無かった。総督のために鉄道と交わる各交通は遮断されたうえ、総督専用列車の運行を妨げないよう、患者を乗せた病院列車までが抑止された。だが、総督を歓迎するための音楽隊輸送列車も停止させられ、揉め事になったと聞いた。
その間にも新患は絶えずやってくる。寝室も担架も、すべて出払った。それでなお増えていくのだから、ついに患者を通路に横たえておくほかなくなった。まだ前線から負傷者が担ぎ込まれないうちに、もう病院は満杯だった。




