026 錬金
病院列車で後送されるべき患者たちは去って行った。そこへ藁布団の材料となる藁が到着し、藁を袋に詰める作業が始まった。病室の戸は開いたり閉じたりしたので、度々寒風が吹き込んだ。
馬車に乗ることさえ困難な重傷者は、当面、われわれの病院で引き継ぐこととなった。彼らは藁布団なしで板敷きの寝台に寝かされ、外套に包まって寒気に震えていた。そして、病室の隅の方から怒気を含んだ黒い瞳が、私に視線を向けてきた。
「何か欲しいのか」
と、尋ねると
「自分は、一時間前から飲み水を頼んでいるのであります」
頬の落ち込んだ、黒髭が目立つ顔で、そう答えた。傍らを通りかかった看護師に水を与えるように言うと、彼女は迷惑そうな顔をした。
「赤痢が流行していて生水を与えるわけには参りません。しかし、荷解が進まないことには少しの湯も沸かせません。病院には湯を沸かす大釜が必要で、それも買ってこなければなりません」
という事情が告げられたので、なるほど、これはどうしようもないと思った。
その間にも新患が続々と運ばれてきた。長い汽車旅を経て、持病の治療が出来ないせいで症状を悪化させた兵卒たちが多いからだ。何日も客車の通路に転がされたままで過ごした有病者の衣服は擦り切れて虱だらけだった。いますぐ重症患者用の差込便器と、消毒用石鹸が必要だ。それを主計官に言うと、薬剤官に言えといわれ、薬剤官は倉庫掛に言えという。しかし、それらは倉庫にも無かった。ならば早急に購入すべきだ。そうなると、話は主計官に行き着く。
あらためて私は主計官と談判に及ぶため探し回っていると、機嫌のよさそうな医長と椅子に腰掛けて話し込んでいるところを見た。
「なにせ奉天では燕麦が1ポンドあたり1ルーブル85コペークの値だからねぇ」
医長は満面の笑みを浮かべていた。前に1ポンドあたり45コペークで買った大量の燕麦を無理矢理に貨車へ詰め込んで持ってきている。その1000ポンドに及ぶ燕麦を、奉天で購入したことにして帳簿を改竄すれば、差益は1000ルーブル以上に膨らむ計算だ。
医長は私が居ることに気づき、口を噤んだ。私は主計官に石鹸その他の必需品について要求すると
「それは、薬剤官に請求してください」
と、腰掛けたまま冷ややかに答えた。帳簿の改竄は主計官の領分だから、彼も医長から相応の分け前を受け取るに相違ない。ゆえに、心ここにあらず、といった風情なのだろう。私は少しの怒気を含めつつ
「そして、薬剤官には倉庫掛に請求しろと言われることになるだろうね」
そう言ってみたところ、
「ああ、そういえば、飲用水をつくるための大釜が要るのでしたね」
と、主計官は腰を上げた。医長との密談を見てしまった私を粗略に扱うのは得策でないことに気づいたようだった。
この主計官のことを、私は小悪党に過ぎないと思っているが、計り知れないのは医長だ。私は医長を魔術師かと思っていたが、どうやら錬金術師でもあるらしい。もとより、高級医官として軍に在籍しながら大病院を経営しているというのだから只者であろうはずがない。私は医長を「敬して遠ざける」ことが望ましいと思っていた。




