120 社鼠
「ダヴィドフは、皇宮に棲み着いた鼠と深い繋がりを持っていたのだ」
そう聞いて、医長が折に触れて発揮した魔力の源泉に察しが付いた。ツァーリの側近く仕える何者かと親しかったのだ。
「その鼠が、帝都に於ける請願行進の一件で失脚した。もはやダヴィドフの神通力も失われた。それゆえ、ダヴィドフは日本軍の捕虜になろうと図った」
中佐は深く溜息をついて、言葉を繋げた。
「つまりだ……ロシアに留まって監獄に入るより、日本の捕虜収容所に入る方が良いと、ダヴィドフは考えていたようだ」
ここまで聞いて、私は一つ気になることがあった。
「医長は、留守家族をどうするつもりだったのでしょう」
中佐は、幾らか声を大きくしながら、
「いま、吾輩が貴官に尋問している。貴官は問われたことに答えれば良い」
と、厳しく言った。そして、ほんの一呼吸置いてから
「ダヴィドフは妻と死別しており、海軍にいた一人息子は仁川で戦死した。ああいう人物だから親しい友人もいない。不正会計で掻き集めた小銭は、帝都の労働運動のために送金していたようだ」
まるで独言するかのように呟いた。
「ダヴィドフの身の上について、吾輩の口から語れることは、これで全部だ。そして、明日には忘れてしまうと良いだろう」
ここまで語り終えたところで、中佐は居住まいを正した。そして、医長が不正会計を隠しもせずに遣っていたこと、その使途については明らかでないことについて、私に確認を求めた。
「仰るとおり、まったく相違ありません」
と、私は答えた。
「うむ、よかろう。ここまでは職務上の尋問だ。このあと、個人として貴官と対話したい」
再び中佐は姿勢を崩しつつ、ゆっくりと脚を組んだ。
「貴官と話したいのは『回想の明治維新』についてだ」
その内容について、中佐が特に関心を抱いているのは、日本人が皇帝を擁しながら軍事政権に対して革命を起こし、しかも革命政権のもとで近代化を成功させたということなのだそうだ。
「ここからの対話に、貴官が応じる義務は無い」
そのように言われたが、この話題には私も関心があった。
「吾輩は一個人として、皇帝と民衆との間に和解が訪れることを望んでいる。そして、皇帝を戴きながら近代的な繁栄を目指すとすれば、日本にこそ見習うべきことがあろう」
俄に中佐は早口になった。
「然るに、わが国は民衆に向けて発砲し、かつまた日本と戦っている」
と、ここまで言い終えて、私の反応を伺っている様子だった。そのとき、私は緊張のあまり無表情になっていたことだろう。
「貴官は、どう思うかね?」
そう問われて、暫し思案したのち思いついたのは、中佐は革命が起きて皇帝が廃されることを警戒しているのだろうと察した。それならば、
「いま、私は日本との戦いに敗れたあとが正念場だと考えています」
と、答えた。
私は極東に着いてまもなく、
――よく教育され、軍紀正しき智者にこそ、勝利の栄光は輝く
ということを思った。そして、長い汽車旅の間に見たロシア兵の姿から絶望しか感じなかったのだ。
「わが祖国ロシアは、日本に負けたのではなく文明に敗れたのです」
私は曖昧な言葉で誤魔化そうとしたが、中佐は
「もっと具体的に言いたまえ」
と、踏み込んできた。
「日本兵に比して、わがロシア兵の教育は足りず、軍紀は弛緩し、敗れるべくして敗れました」
だからこそ、この敗戦の後こそが肝腎だと、私は主張した。新興国に過ぎない日本に敗れたとなれば、周辺国から侮られることになりかねないからだ。まずは憲法を制定し、初等教育に力を注ぐべきだと私は言った。
「ふむ。まあ、ここまでとしよう。吾輩は、真にロシアを脅かすのは外敵ではないと考えている。見解の相違という奴だ」
中佐は、いま語り合ったことを忘れるように言いおいて、部屋を出て行った。




