119 尋問
「貴官はダヴィドフの女房や子供について、一言も聞いたことが無い。そして、その友人らしき者を一人も知らぬということだな?」
真っ直ぐに私の眼を見据えたまま、中佐は言った。
「はい。仰るとおりです」
事実、私は医長と互いの身の上を語ったことは一度も無かった。
「ふむ。そうだろうな。ところで……」
中佐は鞄から、私が持っていた『回想の明治維新』を取り出した。
「それが、なにか?」
惚けたわけでなく、そのとき私は何も問題を感じなかった。
「世界を股に活動した著名な革命家、レフ・メーチニコフの著作だ」
それを中佐に指摘され、はじめて私は拙いことになったと感じた。不穏分子を炙り出すことが、この中佐の手柄になると悟ったからだ。
「お読みになれば御理解いただけると思いますが、その本は不穏分子を扇動するものではありません。30年前の日本を訪れた著者が……」
中佐は掌を差し伸べて、私の言葉を押し留めた。
「職務上、幾つかレフ・メーチニコフの著作を読んでいる。そのなかに、この本も含まれる。まあ、この本のことは後で訊くとしよう。まずはダヴィドフについて、私から話しておくべきことがある」
中佐は腰掛けた姿勢を少し崩しながら脚を組んだ。痩身で狡猾そうな顔つきの狐のような印象だ。
「さる1月、帝都において流血の大事件が起きたことを知っているかね?」
俯き加減になった中佐は、舐め回すように視線を繞らしながら私を観察している。思わず私は喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
「なかなか本国から新聞も雑誌も届きませぬゆえ、確かなことは……」
恐る恐る、そのように返答したところ
「まあ、そうだろう」
と、中佐は納得している様子だった。
「掻い摘まんで説明しておく」
帝都に於いて、労働争議が紛糾していた。労働者たちはツァーリに仲裁を請願するため皇宮へ向けて行進したところ、指導者の制止を無視して行進を続ける参加者がいたため、政府当局に動員された軍隊が発砲し、多数の死傷者が生じた。
「帝都では死傷者数千名の痛ましい事件だと言われている。君ら、戦闘線を見た者からすれば、たいした数ではあるまい。直近の会戦では、一日あたり数万名もの死傷者を出しておるからな」
言われた如く、戦闘線で散乱した肉片を見、潰乱背走する途中で幾つもの遺棄屍体を目にし、また、屍臭漂うなかで食事を摂るうちに、私の感覚は酷く麻痺している。何百人かが即死で、何千人かが負傷だと聴かされても驚かなかった。
「吾輩とて参加者全員が謀叛人だとは思わぬが、警察の警告や解散命令を無視して前進したからには発砲せざるを得ず、また、このような大事件に至った以上、怨嗟の声が上がるのも当然の成り行きだ」
中佐は、指導者の問題だと言い切った。
「指導者が止まれと言えば一人残らず止まるようでなければ、皇宮へ向けての行進などすべきでなかったのだ」
それは確かに支配する側の理屈では、さもあろう。
「その行進のために、かなりの額のカネが掛かっている。18万の行進参加者に食事を摂らせるために掛かるカネがどれだけかと考えるとな、支援者も大勢いるのが道理だ。一人や二人で賄えるものではないからな」
そうした支援者を焙り出したい、ということだった。
「吾輩は、ダヴィドフが支援者の一人だったと睨んでいる」
けちんぼダヴィドフが労働運動を支援していたなど、私にとっては少しも想像がつかないことだった。




