118 連行
われらが移転命令に従って出発した矢先、またしても医長と主計官は行方が知れなくなった。案内人として雇った清国人と何事かを相談しながら人目を憚るように姿を隠し、そのまま還らなかったのだ。さて、どうしたものか。もはや、われらは医長と主計官の不在に慣れていたゆえ、狼狽えることはなかった。しかし、問題なのは要図を見ても現位置が何処であるか、誰にも判らなかったことだ。
案内人が導いて行こうとした道筋には一つもロシア語の道標が無く、ロシア軍が行き来した痕跡はまるで無かった。そして、今朝からの道中、ロシア兵の姿を一度も見ることなく、街道を走るコサックを遠望することもなかった。
やがて憲兵の一団が土埃を立てながら走り寄ってきた。
「医官ならびに主計官助手に御同行願いたい」
そのように憲兵大尉から申し渡された高級医官グレチビンは、
「これより曹長のスメタニコフが病院の指揮を執れ」
と、一言告げてから、私とシャンツェルとセルジュコフと主計官助手を連れて、憲兵隊の荷馬車に乗った。
着いた先は、公主嶺市街地の町外れにある一軒家だった。われら4名の医官は拳銃をはじめ鉛筆や手帖に至るまで持ち物すべてを取り上げられたうえ、一人ずつ別々の部屋へ入れられた。私が入った二階の部屋は、旅宿の寝室の如く一方の壁にのみ窓があり、誰もおらず、ただ二つの椅子だけがある。少しの間を置いて、中佐の肩章をつけた男が入ってきた。
「呼び出す形になって失礼した。皇帝官房第三部の者だ。わかるか?」
皇帝官房第三部といえば、皇宮直属で革命党を取り締まる秘密警察だ。そんな機関に呼び出されるようなことをした覚えはない、と、答えた。
「まあ、掛けたまえ」
中佐は二つ並んだ椅子の一つを斜めに引いて腰掛け、もう一方の椅子を私に指し示した。
「わが機関の長官フョードル・フョードロヴィチ・トレポフは、陸軍衛生長官たるドミトリー・フョードロヴィチ・トレポフの長兄に当たる。陸軍衛生長官ドミトリー将軍は、貴官が勤務する病院を視察している」
思い出した。案内も請わずに病室に入り、湿疹が出来た患者の間近に立ってしまい、その患者を伝染性疾患と誤解した挙げ句、隔離しないでいたことを理由に譴責した人物だ。あのとき、医長が師団司令部の軍医部長へ報告したとおり、衛生長官が案内も求めず無断で病室に入ったこと。そのとき目を付けた患者が伝染性疾患ではなかったことを言った。そして、
「衛生長官は医学上の知識をお持ちでないのです」
と、無遠慮に申し出た。中佐は私を見据えながら苦笑した。
「貴官に訊きたいのは、そのときのことではないのだ。けちんぼダヴィドフについて、何点か質問したいことがある」
意外だった。あの医長は、確かに不正蓄財に勤しむ悪党だが、王宮直属の秘密警察が捜査の対象とするほどの大物ではあるまい。
「はい。知っていることは、すべてお話しします」
私には、それ以外の答えが見つからなかった。医長に対して少しは恩義を受けた思いはあるにせよ、その何倍も迷惑を受けている。嘘をついたり、隠し事をしたりしてまで、庇ってやる義理は無いと思ったからだ。
「もし、貴官がダヴィドフの家族や友人について聞いていることがあれば、些細なことでも話してくれ」
中佐に言われて気付いたが、私は医長の身の上について何も知らない。半年も寝食を共にしながら、ただの一度も家族のことを話したことはなく、訪ねてきたのは知人と呼ぶべき間柄のみで、友人と呼ぶほど親しい人を見たことがない。それを正直に言うと
「やはりな……」
と、中佐は呟いた。




