112 不服
黎明、われらは起き出して出発の準備を整えた。依然、医長と主計官は所在不明ながら、軍団司令部から移動命令が下ったからには、置き去りにして行くしかあるまい。
鉄嶺の収容陣地をも放棄して、われらは更に北へ背進する。後衛に控えていた中隊が引き揚げてきたゆえ、その中隊長に訊いてみた。
「日本兵は遠いか?」
中隊長は少し考えてから、
「おそらく、徒歩で一日、急行軍でも半日行程といったところだろう」
と、答えた。安心もしていられない状況だ。
軍紀は回復しつつあるが、いまなお弛廃している。肥満した将官が馬車から降りて、徒歩の少尉を怒鳴りつけたが、少尉は口答えをした。
「私は、閣下から俸給を受けているわけではない。ツァーリの国庫から受けております。家来に対する如く何事かを命ぜられても、従いません」
周囲を取り巻いていた将校たちは、沸騰して将官に肉薄して来た。
痩せて日に灼けた大尉が、目を怒らせながら叫んだ。
「閣下、会戦の間は何処におられましたか。私は半年も戦地に居るが、司令部が所在不明となることが何度もあった。そして、唯の一度も戦闘線を視察する閣下の姿を見たことがありませぬ。いつも退却命令より先に、自分たちが逃げていたのでしょう? 安全な場所から、時機遅れの退却を命じていたわけだ」
その問いかけに対する回答は沈黙だった。ややあって、大尉は言葉を続けた。
「われらは南京虫の如く塹壕という地隙の中に身を潜めつつ、各人みな出来る限り戦ったのです。いま、あなた方は壁蝨の如く床の敷物のなかから這いだして、われらに向かって指揮を執るなどと仰せだ。いったい、どの面下げて言うのでしょうね」
将官の顔は見る間に青くなり、大急ぎで馬車に乗り込んで走り去った。
停車場にある貨車の周囲には、泥酔した兵卒たちが詰めかけて居た。其処には将校需要品組合の専用車があって、兵卒たちは貨車の戸を破り、積載されていた荷箱を線路上に引き摺り下ろし、箱を打ち壊して中から高級なコニャックや、値の張る煙草を手当たり次第に掠奪した。掠奪は駅前の商店街にも波及し、清国人、アルメニア人のほか、同胞たるロシア人の商店までが襲われた。
われらの一行は鉄嶺市街地を抜けて、遼河の沿岸に達した。幅広き河水は未だ氷結している。ここに橋はなく、夏には舟で渡るようだ。融け始めた氷は既に脆弱で、輜重車を氷上に進ませるとバリバリと音がして、かつまた裂け目から水が噴出して、気味の悪い水溜まりが出来た。
左方には長大な鉄道橋が見えた。やがて日本軍の砲撃が集中するであろう重要地点であり、此処を目掛けて日本軍は騎兵を走らせることだろう。此処で時間を掛けるのは得策に非ず、危うくとも進むほかない。生きた心地がせぬまま薄氷を踏んで対岸に到達すると、およそ100歩を隔てて自然堤防が形成されている。ここまでの道中で幾らか積載品を棄てた輜重車を、およそ20人がかりで堤防の上へ引き上げるのに30分ほどかかった。
堤防上を突き抜けた道路は、難なく人馬が通行できた。乗馬の野戦憲兵は、自分の現在地が何処であるかも知らぬ様子だったが、われらの病院旗を見ると、
「逃亡兵を見張っておりましてな……北へ向かうには、鉄道に沿っていけば良いでしょう」
と、彼方に見える鉄橋を指し示した。




