111 鉄嶺
「なんだ、将校や医官を差し置いて、看護師が病院を指揮しているのか?」
街道を通り過ぎていく兵卒たちが、聞こえるように大声で嘲笑した。いや、実際には看護師の資格も持たぬ、肩書だけの首席看護師なのだが。
スルタノフ病院の正規看護師シナイダ・アルカツェフナが、われらに駈け寄ってきた。
「もう、恐い目に遭うのは沢山です」
と、道中での体験を語ろうとしたが、私にとっては聞きたくもない話なので
「特志婦人のカメネワさんの消息を御存知ですか?」
と、ここまでの道中で単独行動のカメネワと行き会ったことに話題を変えた。
「ああ、いましがた停車場で見つけましたのよ」
たった一人で、仮の棺に収めた夫の亡骸を馬車で運んでいた彼女は、停車場で本国行きの列車に乗ろうとしたが、夫の亡骸は載せられないと拒まれていたところを師団長の目にとまり、亡骸を貨物として送るよう口を利いてくれたとのことだった。夫の亡骸と離れることを嫌った彼女は、貨車に便乗して本国へ戻るのだそうだ。
スルタノフ一行は、このあとハルピンまで汽車で行こうと考えているそうだ。いくら軍団長を抱え込んでいるとしても、そう巧く行くだろうか。
ともあれ、われらは屋根が朽ちて土壁ばかりの粗末な小屋に天幕を張り、一夜の宿とすることにした。なんにせよ露営よりは快適だ。知った顔の将校や医官が訪問してくれたなかで
「わが軍団に戦闘準備が命じられたそうだ」
という情報が複数の知人から齎された。およそ無理な話だと、軍事の素人である私も思った。軍団長は指揮下の師団司令部の現位置を知らず、各聯隊が如何程の戦力を残しているかも判らず、糧食や弾薬が何処でどうなっているかも掌握していない。なぜなら、彼はスルタノフ一行に混じって例の首席看護師から激しい叱責を受けているだけだからだ。そのうえで、私は疑問に思うことがあった。
「もし、命令どおり部隊を動かせたとしても、鉄嶺で会戦が起きるだろうか?」
この疑問には知人の兵科将校が答えた。
「日本軍が追撃してくるかどうかは、神のみぞ知る。ただし、追撃されても後衛戦闘しか出来ずに引き下がるほか無いだろう。一部の弾薬は日本軍の砲撃で吹き飛び、一部は倉庫に収めてあったが敵手に落ちるのを嫌って爆破させ、弾薬車に積んだものしか残っていないうえ、その弾薬車すら一部しか残っていない」
その説に、私は納得した。
「糧食は付近の村落から調達するとしても、奉天付近に比して、この辺は人家が少ない。軍団を養うのに充分な量は得られないだろう。いずれにせよ、長期間の戦闘は出来ない。必然的に一戦して退却することになる」
医長と主計官が所在不明であるゆえ、われら医官の協議によって病院従事者は動いている。一議のうえ、鉄嶺に留まることなく更に北方へ向かうのが得策だということになり、まず軍団長の内諾を得た。出来るなら汽車でハルピンまで行けると良いというので、私は様子見に鉄嶺停車場を訪れた。非常なる大混雑のなかで、人々は火酒を煽り、茶を喫し、または麺麭を囓っていた。私が待合室の長椅子に腰掛けると、その隣に痩せた国務官吏の肩章を付けた経理官が腰を下ろし、頻りと前に立つ輜重兵中佐に向けて話し掛けている。
「どの列車も満杯だし、馬も車輌も無い。運搬手段が無いとなれば、焼くより仕方ないからな」
と語る口の端を持ち上げ、微かに笑みを浮かべていた。そして低声で
「これから毎日、1500乃至2000ルーブルの収入が上がるだろうよ」
などと言った。わがロシア軍には何処にでも医長の同類が居るのだ。
粗末な土小屋に戻って、鉄道を利用することは絶望的である状況を報告したところへ、軍団司令部から命令が届いた。
――開原停車場に移動し、別命あるまで待機せよ
軍団司令部の命令となれば、医長と主計官を置き去りにしてでも移動せねばなるまい。そこへ主計官助手が所用から戻り、
「停車場の郵便函も電信器械も撤去されつつあります」
と、新たな情報を伝えた。すでに鉄嶺をも放棄することが決せられているらしかった。




