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敗戦1905  作者: 大豪寺凱
111/122

110 車列

 近くで日本兵が露営しているというのは後衛の部隊を見誤ってのことらしく、夜半に生起した銃撃戦は味方撃ちだったと、夜が明けてから判明した。恐慌状態を脱した街道上には依然として無数の車輌が北方へ向けて徐行している。


 星光は消え去り、朝焼けが燃え始めた。今朝の空気は一段と冷たい。短時間でも睡眠したことで幾分か生気を取り戻したセルジュコフを励ましながら、われらも歩き出した。路肩に埃と血に塗れた兵卒の屍体が幾つも遺棄されていたが、すっかり見慣れてしまったせいか、私は何らの感情も起こらぬまま歩き去った。


 街道の直ぐ傍らに清冽な湧き水があったので、辛抱たまらず一口だけ飲んだ。あとで腹痛に襲われるやもしれぬが、そのときは致し方なしだ。東方の山陰から日が昇り、空気は少し暖まってきた。生気を取り戻したセルジュコフは、しっかりとした足取りで歩いていた。私の身体も日を浴びて温まると動きが軽くなってきた。


 前方遠く、青く輝いた空際に円塔や急曲線を描いた軒端が見えた。あれは鉄嶺市街地だろうか。否、まだ鉄嶺まで徒歩で一日かかるはずだ。晴れ渡った旭蔭の下に雪融けの細流が微かな水音を立てていた。家屋の煙突から烟が上がっているところを見ると、この辺の住民は避難する必要を感じていないようだ。


 日が既に高くなった。街道上で、医長が先行させていた、われらの病院の輜重車に追いついた。主計官助手は最後尾の輜重車に付き添っていたが、医長と主計官の姿は見えず、その二人が何処に居るのか誰に訊いても判らなかった。われら医官の私物を載せた行李は車輌ごと遺棄されたと聞いていたが、主計官助手は

「行李を開けて、みなさんの私物の一部を持って来ています」

 と、乱雑に物を詰め込んだ麻袋を指で示した。

「金目の物より、みなさんが執着していそうな物を一つずつ選びました。たとえば、ドクトルが鉄道輸送の長旅で熱心に読んでいた本を一冊です」

 本は何冊か持って来ていたが、汽車のなかで熱心に読み返していたのは『回想の明治維新』だった。

「そうそう、そんな書名でしたよ、たしか」

 それを聞いて、私は生き別れの旧友と再会を約したかのような気分だった。


 輜重車と合流した後、幾度も斃れた人馬を見ながら夕刻近くまで歩き通し、野戦築城が施された小高い山が見える場所まで来た。

「あの山の向こうが鉄嶺の市街地だろう」

 と、シャンツェルは言った。此処から街道は二つに分かれており、その分岐点に野戦憲兵が馬上で叫んでいた。

「第7および第16軍団は右へ、第1および第10軍団は左へ……」

 ここまで逃れ来て、やっと軍隊らしい命令による秩序が回復したのだ。それに従って山の麓まで進むと、其処にもまた以前見たような低い土壁で囲まれた非常に広い菜園があって、そのなかに露営の環が幾つも出来ており、それぞれが露営火を焚き始めていた。われらの病院もまた、当地に於いて露営することとした。


 腰を落ち着けてから、主計官助手が例の麻袋から『回想の明治維新』を渡してくれた。

「やぁ、これは嬉しい」

 座右の書というほどでは無いが、ずいぶんと気に入っている一冊だ。永いこと書棚に置き二度ほど読み返した一冊ゆえ、表紙に付いたシミ汚れにさえも愛着がある。読み返すまでもなく、表装を眺めるだけで懐かしさが沸き起こる。


 われらに遅れること一時間ほどで、スルタノフ一行が追いついてきた。スルタノフは馬車に寝かされており、顔色からして病人の様相だった。付き添う首席看護師は化粧が落ち、唇は黒く粘り、頬は土埃に塗れ、意地悪い耳を刺す様な金切り声で兵卒たちに怒鳴り散らしていた。

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