106 新月
「ところで……」
医長は話題を変えた。私が敵国たる日本に関して多少の知識を有しているのは何故なのかと訊かれたのだ。
「書物から若干の知識を得ました」
医学生時代の私は本の虫だった。図書館に入り浸り、なんでも手当たり次第に読み漁り、やがて怪しげな古書店で地下出版物まで手に入れるようになった。蔵書の趣味はなく、読み終えた本は友人と交換したり、古書として売ったりして手元に残すことはなかったが、よほど気に入った本だけは残した。残した中の一冊がレフ・イリイッチ・メーチニコフ著『回想の明治維新』だ。
「レフ・メーチニコフだと? かつて無政府主義を唱えた危険人物じゃな」
と、医長は著者を知っていた。すでに故人となって久しいが、ポーランド、イタリア、フランス各国で民族独立運動や無政府主義運動に身を投じ、銃を手に戦うこともあったほどの活動家だ。その一方で学究肌の語学の天才でもあり、13ヶ国の言語を習得し、その生涯に於いて様々な言語で発表した論文の数は400以上に上るという。
「もちろん、過去にも現在に於いても、私は無政府主義に賛同しませぬ」
と、私は表明しておいた。革命家レフ・メーチニコフは、日本に於ける近代化運動である明治維新を一種の革命と見做した。トクガワ一族による軍事独裁政権を、武力によって打倒した王党派が新政権を樹立し、目覚ましい発展を遂げたことは、まさに革命的だ。
「オオヤマと友人であったよな、レフ・メーチニコフは」
医長が言うとおり、彼は亡命先のスイスで日本陸軍からの派遣留学生オオヤマと意気投合し、帰国したオオヤマを追うように日本へ渡航している。そのオオヤマが、いまや日本陸軍の総司令官として、われらを追い詰めているとは信じ難い事実だ。
「ありふれた名だそうですが、あのオオヤマと同一人物のようですね」
かつて、仏語での会話すら覚束なかった陸軍士官が、いつの間にか日本陸軍を背負って立つ大立者になった。どの国の陸軍でも歩兵閥が横行し、騎兵、砲兵、工兵などは出世が難しいのに、オオヤマは砲兵から元帥にまで昇り詰めたということを聞いた覚えがある。
「よほど政争、暗闘に強い男だろう」
と、医長は言うが、伝え聞くところでは才気を感じさせない茫洋とした人物であるらしい。
とぼとぼ歩くうちに日は地平線に沈み、紫色の残光に刈り取り鎌の如き新月が朦朧と輝いている。
「珍しい組み合わせだ。何を話していたのでしょう」
同僚医官のシャンツェルが追いついてきた。シャンツェルは平常の如く明朗で快活であったが、彼と同行していた医官セルジュコフは生気を失っていた。この両人から、病院の行李を載せた輜重車の1輌が故障によって遺棄されたことを聴かされた。私が本国から持ってきた若干の書籍も失われたようだ。そのなかに『回想の明治維新』もあったはずだ。読み返すことを楽しみにしていたのに、実に惜しい。
弱い新月の光が厚い雲に遮られ、辺りは真闇に包まれた。まったく足許は見えず、路外を通行することは出来なかった。しかし、街道上は多数の車両が群れており、無理に進もうとすれば接触事故を避けられまい。われらは寒さの中で露営することにした。




