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敗戦1905  作者: 大豪寺凱
106/122

105 壮語

 われらは疲労を極め、眩暈しつつ、生ける屍の如く、辛うじて街道を歩む。激しき渇きが私を苦しめたが、水筒の中味は口一杯まで詰めた火酒だった。途中、何カ所か井戸はあったが、先行するロシア兵に汚されて飲めたものではなかった。

「もう、いましも落馬しそうじゃ」

 と、医長は弱音を吐いたが、果てない行軍は続いた。


 背走するロシア兵と、追進する日本兵。包囲の環を閉じようとするオオヤマと、辛うじて食い止めるクロパトキン。歩みを止めたとき、われらは死するか、捕虜になるかだ。そんな善くないことばかりが頭に浮かんだ。


 退かぬ、退かぬと言っていたクロパトキンは、みずから総予備を率いて脱出路を確保し、その指揮下にある全員を退かせようとしている。それが彼なりに責任を取ることなのだろう。彼は極東に赴任する際、

「和平交渉は、東京に於いて締結するであろう」

 と、高らかに宣言した。その言葉は、いまや滑稽にしか聞こえぬ。だが、終始、聞き苦しいことのみ言っておっても、行動によって彼は最高司令官としての責めを負っている。


 攻勢を中途で投げ出して帰国したグリッペンベルクは、着任に際して厳粛なる演説で、

「退く者は斬る。予にして退却せば、汝らは予を斬るべし」

 などと宣言していた。彼からすれば、言葉の意味など重要ではなかったのだろう。出来るだけ力強く、可能な限り大声で、その場に於いてのみ人々を感動せしめ、かつ勇気を奮い立たせることが出来れば善かったのだろう。そんなことを言ったことさえ忘れ去り、病と称して本国へ逃げたのだ。そういう卑劣漢に比べれば、まだしもクロパトキンは軍人らしい男だ。


 彼是と、つまらぬことを考えつつ街道を歩く。ふと思いついたことがあった。われらの姿は、敗残兵そのものだ。沿道の清国人からも、そのように見えるだろう。そこから一つの恐怖が予期された。家を壊され、掠奪に遭い、墓を暴かれ、崇拝する偶像を毀傷された事々に対し、清国人みな心中に激しき怨恨の情が有るはずだ。その復讐は、何時、如何なる形で行なわれるだろうか。


 あるいは、山犬の如くに陰険な顔をした馬賊が、われらを待ち伏せているやもしれぬ。そして、不快そうに沈黙していた清国人たちは、いつまでも黙って居るはずがない。彼らにとって、いまこそ立ち上がるべき好機なのだ。掴み所の無い恐怖に囚われた私が、帯革に吊るした拳銃に手を遣ると、たちまち医長が馬で駈け寄ってきた。拳銃で自決するとでも思われたようだ。


「ドクトル、例の医学生を覚えておるか?」

 医長に言われても、まったく記憶に無いことだ。われらの病院に師団軍医の紹介で医学生を受け入れたというのが、プチロフ陣地の攻防が頻りだった時期らしい。その頃、私の関心は巨砲と、日本軍の動向に向いていて、医学生が来たことさえ気付かなかった。

「彼奴が捕虜になったらしくてのぉ」


 逃げ遅れて追及してきた看護卒によると、進出してきた日本兵に医学生は無抵抗で捕らえられ、その間に看護卒は身一つで逃れてきたという。

「無事を祈るほかありませぬな」

 と、私は言った。実際、わが身を逃れさせるのに精一杯で、顔も見た覚えがない他人の心配などしていられなかったのだ。

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