102 休止
もはや何処とも知れぬ小川の畔で、わが病院の先行していた輜重車が休止している。馬に水を与えることが出来るゆえ小休止には適している。私も川の水で顔など洗うべく足を留めることとした。
やがてスルタノフ病院の面々も一緒になり、どうしたものか軍団長も其処に混じっていた。スルタノフの同僚医官から話を聞くと、奉天会戦が始まる直前に撤収命令が出て以来、奉天の南方に資材を梱包したまま極めて閑散に遊び暮らしていたそうだ。軍団長は、スルタノフ病院の存在を忘れていたわけではなく、奉天の保持が危うくなった際には逸早く退却を命じたそうだ。おそらく、忘れていただろう、われらは命令を待たずに支度して、いまようやく現地点まで来ているわけだが、より早く退却命令を受けたスルタノフ一行が後から追いついてきたのは何故なのか理由を想像してしまった。軍団長という名の荷物が重すぎるのだろう。
スルタノフの顔は砂塵に塗れて黄色くなり、不平らしい顔で沈黙していた。その傍らで、例の首席看護師が不機嫌そうな顔で珈琲に砂糖を入れていた。私も鰯の缶詰を一つ開けて黙々と食べた。遠くに、小川に沿って小さな村落があるのが見えた。古びた狭い石橋が架かっている。街道の橋梁は例によって大渋滞を起こしているので、この橋まで迂回してくる輜重車もいるようだ。
コサックの斥候が傍らを通り過ぎ、村落の後方にある小山に上がるや否や、すぐまた駆け戻ってきた。
「いったい何処から湧いて出たのか、北方の山の後ろに日本兵が来ました。こちらに気づいているようです」
まさか天から降ったとでもいうのか、追ってくるはずの敵が前を塞いでいるとは信じがたいことだった。まったく囲まれてしまったのか、あるいは小部隊のみ独断で先行してきたのだろうか、それは誰も判らなかった。ただ、われらを襲ってこないということは、赤十字を描いた病院旗に免じて、お目こぼしに与っているということなのだろう。そうだとしても、いつまで日本人が待ってくれるか判ったものではない。
われらは大急ぎで馬匹を飲み水から引き剥がし、輜重車に繋駕した。軍団長は行軍序列を定め、まず真っ先に本街道へ向けてスルタノフ一行を進ませよと命じた。医長は、聞かぬふりをして別なる命令を発した。
「われらは小さい方の橋を渡る」
あまりに大胆すぎる命令だ。日本兵の目と鼻の先を通っていけというのだ。
「あの日本人は優等生を気取っておる、赤十字旗に向けて発砲せぬわ」
半信半疑ながら、われらは医長の命令に従った。
本道へ向かったスルタノフ病院一行は、街道の大渋滞に巻き込まれて停滞し、痺れを切らせた軍団長が徒渉を命じたらしく、氷が溶けて流れ始めていた河水に腰まで浸かりながら輜重車を押し始めた様子が見て取れた。河岸は険しく切り立っており、頻りに鞭声が響いている。
われらは早駈けで村落に入った。兵卒は誰もが身を縮め、狂気の如く走りながら橋を渡った。幸いにも日本兵は一発も撃ってこなかったが、各人みな死地に赴く覚悟で、私も生きた心地はしなかった。
スルタノフ一行の徒渉は難渋を極めているらしく、輓馬が壊れた輜重車の残骸を引きずりながら狂奔し、河岸の急斜面を登り切れなかった輜重車が転覆し、馭者台から振り落とされた兵卒は塵埃の中を転げ回った。
「繋索を切れ!」
遠くまで通るほどの大声が明瞭に聞こえてきた。兵卒らは命ぜられた如く綱を切るや、一人の兵卒が馬に飛び乗って逃走した。
「おいっ、何処へ行くのじゃ」
という声は軍団長か。
その光景を、医長は愉快そうに眺めていた。
「人も馬も、日頃の扱いに報いるものだからな」
医長の独言に、なるほどと思った。けちんぼダヴィドフとて人馬の給養については種々気遣いがあったからだ。




