101 行李
行く道々、若い工兵少尉が愉快げに手を揉みながら話し掛けてきた。
「ヤア、聞きましたか医官殿。わが軍団の大行李が日本軍の手に落ちましたよ。軍団長はじめ、お偉方の貴重品など一切合切、持って行かれたのです」
大行李とは、糧秣、将校の荷物、各種工具、予備蹄鉄、炊具、予備車両、予備輓馬その他を運ぶ追随部隊のことを言う。弾薬や衛生資材等、戦場で頻繁に使用するものは分けて運び、それを小行李と言った。その少尉の属する工兵隊は小行李までも失ったそうだ。
「御覧ください。身につけた水筒と携帯口糧、小銃と弾薬盒、それだけが残ったのです」
工兵が本領を発揮するには工兵器材という七つ道具が要るわけだが、それも大行李に収めてあったので、いまは無いのだという。
「例によって電信柱を薪にしちまう連中がいても、電線の被覆を剥がして短絡させちまう連中がいても、もう直しようがありません。壊れたまんまです」
と、如何にも嬉しそうに言う。どれほど工兵が役立つ存在なのか、この際、身に浸みて理解せよとでも言いたげだ。
「そちらはどうでしたか? 軍団長の退却命令は出ましたか?」
独断で逃げ支度を済ませた頃に、ようやく退却命令が届いたことを思い出した。実際、時機を失していたのは確かだし、届いておらずとも病院は戦闘部隊ではないゆえ、逃亡罪に問われることもあるまい。
「わが部隊の場合はですね……」
軍司令部との電信が繋がらなくなった。偵察兵が軍司令部付近まで日本兵が迫ってきていると報告してきたが、状況は不明だったので、新たに軍司令部まで電信線を架設せよとの命令を受け、電信中隊を連れて軍司令部に向かったところ
「軍司令部は、まるで地獄の業火に落ちたように、猛烈に射撃されていました」
いま引いたばかりの電信線で軍団長に状況を告げると
「なんとまあ、架設を強行せよと言いやがったんですわ」
辺り近所で榴霰弾が破裂して危険窮まるなか、コサック騎兵の分隊と行き会ったところ、すぐ後ろまで日本兵が来ているから引き返せと言われたそうだが、それでも命令に従って軍司令部に突入すると
「宛然、蟻の巣を掘り起こしたようでした」
参謀長はじめ高級将校は馬に跨がって、いましも逃げ出す場面だったという。
「軍団長との連絡に、電信線は要りますか」
と、訊いたところ、要らないとのことだったので電信中隊ともども退却したのだそうだ。
「軍団長へ復命しようと戻ってみれば、誰もいない。蛻の殻でした。とっくに逃げてやがったんです」
なるほど、軍団司令部が所在不明だったのは、真っ先に逃げ出していたからだと、いま判った。わが病院ばかりでなく、指揮下部隊を置き去りにしたままでだ。
この工兵少尉は、軍団長からの命令を待たずに独断で退却した道すがら、軍団の大行李が日本軍の手に落ちた場面に遭遇したそうだ。砂塵の目眩ましを喰らいつつ、また、自分も必死で逃げながら、随分と胸が透く思いだったという。
街道は、大きな村落に差し掛かった。日に向かって眩しそうに目を細めた清国人たちが、家々の脇に立って敗軍の列を眺めていた。さぞや彼らも胸の透く思いだろう。




