099 屍臭
車列のなかに見覚えのある人物を認めた。先日、夫を看取ったばかりの特志婦人カメネワだ。馭者はなく、みずから馬車を操っていた。頬は痩け、顔面は蒼白となり、眼の周りには黒い環が出来ていた。馭者席の足台には油布で包まれた、大きな角張った物が横たわっていた。私は車輌の間を掻き分けて行って、
「病院の仲間は何処ですか?」
と、声を掛けた。彼女はまるで異界から召喚されたかのように眼を瞠って驚きを示しつつ
「単独行動です」
消え入りそうな声で答えた。
奉天旧市街の葬儀社に亡き夫のための棺を注文したが、受け取る前に日本軍が来てしまったのだという。たまたま建具屋が開いていたので、急拵えながら棺に代わる箱を作らせたが、後送列車には箱の引き取りを拒絶されたのだという。
「まだ息のある人を運びたいということでした」
医療者として、そう言われてしまえば引き下がるほかないという事情も私には充分に理解できた。
カメネワの足下にある、防腐布に包まれた仮の棺から堪えがたい屍臭が漂ってきた。
「奥さん、ここで葬りませんか。皆で手伝いますから」
私は簡単に言ってしまったが、凍った地面に墓穴を掘るのは容易な事ではあるまい。だが、それよりほかに良い方法は思い浮かばぬ。
「いいえ、私は夫の亡骸を本国へ連れて帰ります」
そのように固い決心を示された私が返答に困っていると
「医官殿、どうかお助けください」
と、見知らぬ兵卒に声を掛けられた。
その兵卒の傍らに倒れ伏した傷者がいた。腹に銃弾を受けながら、繃帯もせず歩き続けていたところ、ついに倒れ伏してしまったのだという。すぐさま手頸の脈を診たが、ほんの僅かしか打っていない。とうてい歩かせることは出来ず、馬車で運ぶほかはない。その兵卒が属する部隊の将校に、車輌に積載した金盥を投棄して傷兵を乗せるよう進言したところ、
「私の権限では出来かねる」
と、鮸膠も無い。いま、この場では、一人の命が金盥の価値より低く見られているわけだ。
「積載品の上に寝かせてはどうか」
という提案が為されたが、付き添う兵卒が首を横に振った。積載品の上に載せたのでは、しっかりと意識のある傷兵でさえ動揺を堪えきれず落車してしまうのだという。ましてや意識を失いかけている傷兵は、とても無理だというのだった。
「縄で縛っても駄目か?」
私は訊いてみたが、
「この場には、その縄さえ無いのです」
と、言われてみれば当然の答えが返ってきた。
一人分だけ空いた馬車なら、すぐ近くにある。
「あたくしなら構いません」
と、カメネワは言ったけれども、虫の息となり果てている兵卒は屍臭に気づいていたようで、ぐったりと眼を瞑ったまま首を横に振った。万事休す。もう私に出来ることは限られていた。
私は外套の物入れに仕舞い忘れた阿片チンキが入っていたのに気づき、その兵卒に飲ませた。もちろん鎮痛剤として与えたが、あるいは呼吸を止めてしまうかもしれない。いや、どのみち救う手立ては無いのだ。それでも傷兵は苦しそうにしていたので、持ち合わせのコニャックを口に注いでやった。繃帯も薬も無いゆえ、そのほかには何らの処置も出来かねた。
「じゃあな」
私は、泥棒の逃げるが如く、その場を立ち去った。




