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敗戦1905  作者: 大豪寺凱
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009 弛緩

 長い汽車旅は、私に思索の時間をもたらした。乗り合わせた人々との会話にも読書にも飽き、ひたすら頭の中で自問自答を繰り返している。これほど濃く深く自分自身と対話したのは、人生で初めてのことだ。そうこうするうちに私を乗せた列車は、ようやくウラル山脈に達した。


 古来、ここまではヨーロッパ、ここから先はアジアであるとされる。このあとはシベリアを西から東へ横断するわけだが、その距離は今まで通り過ぎてきた距離の何倍もある。


 車窓から、はじめて見るアジアの西端は、四囲みなすべて視界の果てまでが荒野だった。各梯隊が一筋の鉄路の上を進んでいく様子は、細い枝の上を何匹かの蝸牛(かたつむり)が這っていくかのような印象だ。ときおり反対側から来る奴と行き会ったり、生意気にも後ろから追いついて先に行こうとする奴が煽ってきたり、その度に待避できる場所を探さねばならないのも、なんら蝸牛と変わらない。


 待避が無くとも、機関車の燃え殻を棄て、給炭と給水、そして再び火をくべて蒸気圧をあげるために各停車場で何時間も停まっているのだから、いつ極東まで辿り着くのか、輸送指揮官でさえ「何日後という、見通しはたたない」という。


 後続列車に追いつかれ、同じ停車場で時間を過ごしたことも何度かあった。どの列車も兵卒たちが泥酔しているのは同じだ。歩けないほど酔い潰れているなら然程(さほど)害はないが、数時間の停車中、汽車から降りて近くを歩いてまわる兵卒たちには、ことさら注意が必要だった。駅前の商店に入り込んで什器を叩き壊すなど、暴れ回る者がいるからだ。


 すべては、戦場に送られる恐怖から起きる。

 どのみち自分は死んでしまうだろう、などと思い込んだ兵卒たちにとっては怖いものが無い。軍法会議で銃殺も、敵弾を受けて戦死するも、同じことではないかと思うからだ。そういう心理状態では、どのような軍律も意味を持たない。


 たとえば、停車中に歩き回っていて列車に乗り遅れた場合、逃亡罪に問われかねない。最高刑は銃殺という重罪なのだが、指定の刻限までに戻らない兵卒もいる。たいがい発車が遅れるので知らぬ顔で列車に乗り込み、下士官に酷く殴打されるくらいで済まされるのだった。戦場に送られる兵卒たちを「死の恐怖」で縛ることなど出来はしないのだ。ゆえに兵卒たちは平気で軍律を破る。


 私が居る客車は後方勤務要員に割り当てられているので女性も混じっていた。看護師たちのほか女性の調剤師と尼僧もいる。しかし、着飾った女性はいない。停車中に後続の列車に追いつかれたとき、かねて顔見知りの医師スルタノフと出くわした。彼は着飾った妙齢の女性と相携えてホームを歩いていた。(あたか)もモスクワの目抜き通りを闊歩する男女といった風で、兵卒たちには目の毒だ。


 いや、兵卒ばかりではない。将校たちも頻りに妙齢の女性に声を掛け、媚びた態度で接しようとしていた。スルタノフは「姪だ」と紹介していたから、独身の将校は本気で口説こうとしたのだが、ロシア語が充分には通じない様子で、彼がフランス語で会話を試みると流暢なフランス語で応えた。スルタノフにフランス人の姪が居たとは初耳だ。


 司令官と呼ばれるほどの地位ともなれば、妻を伴って戦地に赴く人もいるとは聞くが、姪を連れて行く軍医があろうとは思えなかった。連れて行くのに理屈をつけるべく、妻に特志看護師の資格を与える高等医官は少なくないが、連れて行くのが「姪」だというのは信じ難い。


 もはや軍律など、どこ吹く風。こんな軍隊を戦地に送っても、まともに戦えるはずがなかろう。きっと、兵卒たちは塹壕のなかでも酒を飲みながら博打に夢中だろう。たとえ敵襲を受けても、敵兵に向けて発砲することさえ期待できない。将校にしても祖国のため真剣に指揮を執ろうとする者は少ないだろう。祖国より自分の利益を優先するに違いないからだ。


 ここまで軍紀が弛緩していては……

「勝利など、あり得ぬな」

 私は、思わず独言してしまったが、隣席から鋭い視線を受けてしまった。私が任官した日に軍医の心得を説いた老軍医で、いまは私にとって直属の上司たる医長の地位にいる。私は咄嗟に

「日本のことですよ。哀れな小国ですからね」

 と、言い繕った。

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