000 夜襲(序に換えて)
ある日、古書店で『敗戦』と題する翻訳ものの戦記小説を見つけた。奥付には、ウエー・ウエレツシェヨー著 大場茂雄訳 大正4年7月16日 兵文堂刊行 と記載されている。ロシア軍医による日露戦争の実録小説という体裁だが、作中の主人公でもある「予」のことは予備役召集の軍医であること以外、ほとんどわからない。家族のことも、応召前の医師としての仕事ぶりも書かれていない。ロシア革命前後の社会を生きる困難さを思えば、作者の筆名も本名とは異なるだろう。あるいは実録を装った一人称小説なのかもしれない。だが、なかに書かれているロシア人たちの心理には、思わず「さもあろう」と膝を打つほどの説得力があった。その『敗戦』を下敷きに、換骨奪胎して本作を書くこととした。忠実な現代語訳ではなく、私の妄想を織り交ぜることもしよう。まずは、一人称の「予」を「私」に置き換えるなど、現代に受け入れられるよう表現に配慮しながらも、20世紀初頭の空気感が伝わるよう、あえて古臭い表現を交えていくこととしたい。
1904年降誕祭祝日の夜、最初に砲声が轟いたのは21時頃だった。大陸の東の果ての戦場では厳冬期を迎えて自然休戦に入っていたが、軍使を遣わして協定を結んだわけではない。ゆえに、いつ敵襲があってもおかしくなかった。
夜空は、まるで盥の水に黒いインクを流し込んだようで、月も星も見えない。真闇のなかで第二発の砲声が響き、次いで、わが大隊の陣地から急射撃の銃砲声が起こった。鈍い遠雷のごとき砲声に続いて、空気を切り裂く音をたてながら砲弾は飛翔し、煎った豆が鍋のなかで爆ぜたような小銃の音は、次第に右へ左へと広がっていった。
軍医として火線救護のために最前線で待機していた私は、砲声が起こるとすぐに仮繃帯所を開設して負傷者収容の準備を始めたが、誰一人として運ばれてこない。しかし、銃砲声はますます激しく、足音高く伝令が闇の中を駆け回り、遙か前方の敵陣地からは探照灯が照らされた。日本軍の探照灯はグルグルと周囲を探っていた。あとから思えば、彼らもまたロシア軍が何を慌てているのか、わからなかったのだろう。
しばらく激しい銃砲声が続いたが、依然として負傷者は担がれて来ない。
夜半に銃声が止み、私は眠りについた。合間の時間に「寝貯め、食い貯めをしておくことは、戦場に出た軍医としての務めだ」と、軍隊に入ってすぐに教えられていた。大勢の負傷者が搬送されてきたときは不眠不休、飲まず食わずで働かねばならないからだ。
翌朝、私は何事もなかったように野戦病院へ戻った。最前線での待機は、まったくの徒労に終わったのだ。夜が明けると、昨夜の「戦闘」の真相が明らかになった。この日本との戦争の全期間を通して、最も恥ずべきことが、昨夜ここで演じられていたのだった。
発端は降誕祭前夜、わが軍の塹壕へ日本人からの投げ文があったことだ。
「ロシア正教の降誕祭を、日本人は決して妨害せず、また、不安を惹起させることもない。ゆえにロシア人は安心して降誕祭を大いに祝え」
という内容が、たどたどしいロシア語で書かれていた。
考えてみれば恐ろしいことだ。もとより異教徒である日本人は、われわれとは異なる暦を用いている。日本人は近年まで用いていた東洋の暦を用いることを止め、カソリックやプロテスタントが用いるグレゴリオ暦を採用した。その日本人が、ロシア正教会が用いているユリウス暦での降誕祭の日を知っている。彼らはロシアについて、かなり勉強しているらしい。
ともあれ日本人の投げ文は、わが軍の誰もが狡猾な謀略だと受け止め、奇襲を予期して待ち構えていた。それゆえ、私も前線での待機を命じられたというわけだ。
日本軍は降誕祭祝日に、わが軍の油断を期待して何かしら行動を起こすに相違ないと、わが軍将兵は非常に昂ぶっていた。その緊張が持続したまま当日の夜を迎え、闇の中で自陣に近づく足音を聞いた。行進のように歩調を整えた軍靴の響きではなく、不揃いな音が、あるいは高く、あるいは軽く、正面から多数で近寄ってくる。
「敵襲!」
一声叫んだ猟兵が発砲、その一発が砲兵中隊を動かし、やがて直近の塹壕に居た大隊の急射撃に至り、さらには両隣の大隊をも巻き込んで、聯隊規模の火力を闇に潜む敵に浴びせたのだった。
翌朝になって明らかになったのは、突撃してきたのが豚の群れだったということだ。何処からか、囲いを破って逃げ出したらしい。彼らの「肉弾」は一つとて届くこと無く、むなしく幾つもの屍を晒していた。
豚による「夜襲」を発見した大隊は、聯隊長に電報で増援を要求したうえ、連鎖地雷に点火、埋設された地雷が続々と爆発し、これがために大騒動を惹起したわけだ。万事が不真面目を極めた地雷爆発の火光は、一人の影さえ映し出さなかった。やがて、わが軍と対峙する日本軍の陣地から、その周縁部へ向けて探照灯が照らされたが、やはり塹壕の外に人の姿を照らし出すことはなかったのだった。
本戦闘について、クロパトキン司令部は本国宛の電報で
――12月25日夜、中央陣地帯に敵襲あり。わが前哨が機を失せず銃砲火を浴びせしに、ほどなく敵は退却せり。わが方の損害、死3、傷18(うち見習士官1)
と、報告した。私の仮繃帯所へ搬送された負傷者はなかったが、他の大隊では誤射による死傷者が出ていたのだった。冗談好きな某大尉は
「斥候らしき日本兵の死体を見た」
と言っていた。あまりの滑稽さに大笑いしたせいで
「腹がよじれて死んでいた」
ということだった。
閑話休題。
正直なところ、われらロシア軍人は心の底から日本人を憎んで出征したわけではない。互いに殺し合った現在でさえ、ツァーリのために日本人を根絶やしにしたいなどと思う気持ちは微塵もない。その挙げ句が、豚を相手に死傷者まで出しての滑稽極まる夜戦なのだ。
思えば、この戦争の最初からそうだった。ロシア国民の大多数は、日本人と戦うことなど望んではいなかった。そのことを、いま、ここで思い返してみる。