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【短編版】“足りない”令嬢だと思われていた私は、彼らの愛が偽物だと知っている。
「ほら、レーナ。ここだここ、ここにサインをすればいい。そうすればお前の大好きな母親に会わせてやろう。いくらお前でも自分の名前をサインすることぐらいはできるだろう?」
「……出来ますけれど」
「じゃあほらここ、早くしろよ。俺らはお前と違って日々、やることが沢山あるんだからな」
婚約者のアーベルはそう口にして、二つの並べられた書類をペンでトントンと示した。彼が前かがみになると少し強い花の香水の香りがした。
そしてその隣にいるマイリスはその様子を見てくすくすと笑っている。
「ちょっとぉアーベル、そんないい方しなくてもいいじゃない、いくら何でもレーナが可哀想だわ」
そう言いつつも表情はレーナのことを馬鹿にするような笑みを浮かべている。そう言う表情は今までも、何度も彼女にも他人にも向けられてきた。
「いやいや、このぐらいはっきり指示してやらないとダメなんだ。じゃないとわからないだろ、生まれながらの知恵遅れには」
「なにそれ、優しさのつもりって事?」
「ああそうだ。今だってほら、マイリスが口をはさむから固まってしまっただろう可哀想に」
彼らはそんなふうに会話をしてレーナへと視線を移した。
それにレーナは、いつもの事だと思ったが、固まってしまっているのは何もマイリスが文句をつけたからではない。
……これ、婚約解消の書類に……それに、何ですかこれ。
見れば見るほどその書類は不可解で、謎の自白が書かれている。このクレメナ伯爵家の収益を長年にわたり王族に隠していて報告を怠っていたというような内容だった。
そもそもレーナはクレメナ伯爵家の跡取り娘ではあるが、実務的な事にはまだ関与していない。
もちろん普通ならば後継者教育が始まっていて、実務に携わっていてもおかしくないのだが、レーナの状況は特殊で父はレーナに対しても妹のマイリスに対しても無関心だった。
だからこそレーナの変化にも、マイリスの最近の行動や状態についても父は一切知らない。
「あの……この書類は……何と言いますか」
「ああ、いい、いい。どうせお前はこんな難しい書類など理解できないだろう? だから早くサインをしろ、出来ないなら母親に会わせてやらないぞ?」
「そうよ、レーナ。早くしてよね。まさか本当に自分の名前すら書けないの?」
煽るようにそう聞かれて、レーナは少し困ってしまう。
たしかに母親には会いたい。しかしそんな権限をアーベルが持ち合わせているはずもないし、レーナは領地の収入をごまかすようなこともしていない。
しかし、婚約解消の書類だけだったなら納得できない事もない。
アーベルはレーナの事を母のように知能の遅れた女の子だと思っているだろうし、マイリスの事を好いているように見える。マイリスも同じくアーベルに思いを寄せているようだった。
アーベルはレーナと婚約解消をして、マイリスと結婚したいと考えていると考えることができる。
しかしそれには、あまたの障害があるだろう。
だからこそレーナに罪を着せて追い出してからマイリスと結婚するという手段は少々デメリットが大きすぎるような気がした。
「私は、きちんと納得できない書類にサインをするなといろいろな人に言われていますし、そうするべきだと思います。だからできません」
自分の判断でもあるし、そう言うことはしないように屋敷の者にはそう躾けられてきたのだから、守る必要がある。
けれども彼らはその答えが予想外だった様子で二人して驚いて、それから顔を見合わせる。
それから、子供の戯言を朗らかに笑うみたいに笑みを浮かべた。
「ははっ、良いんだぞ、大人ぶらなくて。どうせお前に納得できる書類なんてないんだ。婚約者の俺が言っているんだそうすればいい」
「そうよっ、あなたのちっぽけな頭で考えたってわからないわ! そんなの分かっているのにね! じゃああなたこれから一生、何の書類にもサインせずに生きていくわけ?」
彼らはカラカラ笑っている。
それにレーナは、どうするべきかわからない。昔からそういう扱いではあったが、ここ最近は異を唱えたいと思う事も増えてきた。
けれどもそれを言い出す機会をずっと逃している。
レーナは自分が普通だとは思わないが、何も分からないわけじゃないという事に気が付いていた。
ただそれを今主張したところで彼らは聞きそうにない。父もそれを示す機会を与えてはくれないし、幼いころからのレーナを知っている屋敷の者も同じように考えなくていいように配慮をしてくれている。
だからこそ、それが一番の悩みだった。
「……じゃあ、持ち帰ってよく、考えます」
そういうと彼らの間に、多少の緊張が走る。
人の顔色をよく見てきた人生なので、それがどういう感情なのかすぐに察知してレーナは昔のように口を開けて笑っていった。
「……あと名前の字を内緒で侍女に教えてもらいます。妹や婚約者に教えられるのは恥ずかしいので」
「っえ? ふふっ、嘘。本当に自分のお名前も書けないの? レーナちゃん」
「やめろやめろっ、っははは! レーナちゃんは可愛いな、ずっとそのままでいてくれ!!」
彼らはそう言うと、ゲラゲラと笑いだして、レーナのことを幼い子供の様に呼ぶ。マイリスは手袋をつけている手をパチパチ叩いて喜んでいた。
その様子に書類を手に持って少し恥ずかしくなる。
これを手段として使えるほど自分は良くなったと思うべきか、それともこういうふうに言われたら憤慨するべきかそれはまだレーナにはわからない。
それはレーナが、咎人だからなのだろうか。
そう疑問を持って、去っていく彼らを見送ってから、近隣領地の図書館へと向かった。
隣にある大領地、ライティオ公爵領には一般貴族に開放されている図書館が存在している。
本と言えば、多くの大切な事やたくさんの事象が載っている世襲制の貴族にとってはその家の財産とも言っていい代物だ。
それを気前よく、派閥や位に関わらず見せるというのは実は公爵家の中でも反対意見があったらしい。
しかし押し通した末に得られた世間の評価は、それを大衆に広めてもなおライティオ公爵家の地位は揺らがないのだろうという信頼と尊敬だった。
だからこそ多くの貴族たちが話題に乗って利用するようになり、図書館の運営によって浅い歴史の貴族たちはとても助けられているらしい。
そういう利用者からの寄付金も集まり、図書館の蔵書は年々増える一方という事だ。
そしてレーナもとても助けられている。今日はそこに知恵を借りに来たのだ。
図書館の中には休日ということもあってか、それなりに貴族が出入りしていて、本を読んでいる人もちらほらと見受けられる。
きょろきょろとしていると、いつも図書館にいる彼の事を見つけられてレーナは書類といくつかの本を抱えて彼に声をかけた。
「ごきげんよう。ヨエル様」
声をかけると適当に本棚を見ていた彼はふとこちらに向いて、気の良い笑みを浮かべる。
「おう、レーナ。君から声をかけてくるなんて珍しい、いつも俺から声をかけているだろう?」
「はい。……ただ少し知恵を借りたい事情がありまして、あなたを探していたんです」
「そうか? ……まぁ、知恵なら本に聞けと言いたいところだが、ほかでもない図書館仲間の君の事だからな聞こうじゃないか」
レーナのお願いをヨエルは快諾してくれて、二人で閲覧用の机の方へと向かう。向かい合って座って、手に持っていたものをとりあえず机に置く。
これらは、先日の書類に関することが載っている本なので、彼との話にすぐに必要になってくるものではない。
レーナが聞きたいのは、山ほどある本の中にも載っていない込み入った事情の対処法なのだ。
「少し、重たい話になってしまうのですが相談を出来る相手がほかに思いつかず、頼ってしまい申し訳ありません」
しかし突然相談をするにしても重たい話だ、ヨエルに配慮するようにそう口にすると、頬杖を突いて足を組んでレーナを見る。
「前置きはいいぞ。ここにいる間は、俺らの間に身分差はない。そう言っただろ」
「……はい。ヨエル様」
「本当は敬称もいらないんだけどな」
「いえ、それは流石に」
「だよな。わかったそれで相談を聞こうか?」
促すように彼は言って、それに答えるようにレーナは話し出した。
「まずは私のことから前知識として話しますね。名前以外は、話す機会もありませんでしたから」
「……知ってるぞ。一応、一応な? 偶然。クレメナ伯爵家長女で、跡取り娘。十七歳、腹違いの妹が一人。婚約者はカンナス伯爵家のアーベル。間違いないか?」
ヨエルはペラペラとレーナの情報について口にする。なぜか一応、偶然などと前置きをしたが、その知識にレーナは少し驚いてからすぐに言う。
「すごいです。ヨエル様はやっぱりとても博識なんですね。周辺貴族の情報など空でも答えられるという事ですか」
「……ああ、そういうことにしておいてくれ」
「はい。では話が早いですね。私が相談したいことというのは……私自身の身の振り方についてです」
「身の振り方ね。今の人生に何か不満があるのか?」
彼は話を進めやすいように質問をしてくれる。その質問にレーナは首を縦に振る。
不満はある、そしてこのままではいけないとも思っている。
けれども、どう変わっていくべきかはわからない。
「不満はあります。周りの人が考える私の像があまりにも今の自分とはかけ離れているような気がしてならないのです」
「変な噂を立てられているとか? とても性格が悪いと思われているとか?」
「似たような物です。……その像が植え付けられたのは私の母に原因があるのです」
そこまで言うと彼は少しピンときたようで、難しい表情をした。
「ローゼ・ヒューゲルの事だな。彼女は、変わった人だった」
「はい。母は、父に離縁を言い渡され現在、旧姓に戻っていますがそうなるまでの間でも、何かと話題の人でした。ご存じなのも不思議ではありません」
「……そうだな」
「離縁に至るまでも、それなりに家の中でトラブルがありまして今は、クレメナ伯爵家には夫人がいない状態です。けれど問題はそこではなく、母のその変った部分」
ローゼは、レーナの母であり、そして遅れた人だった。
変った人とも言うが、ひどい人は差別的な言葉で彼女のことを呼ぶ。
「変っているということは屋敷の中で周知されていましたが、私は主に母に育てられました。遅れていて、変っている母に……そういう人の事を年配の人は変っているではなく、前世で犯した罪を背負っているというそうですね」
「そう言う考え方もあるな」
「はい。なので、親の罪は子に、私は母に育てられて十歳なるまで一緒に過ごしていましたが母に多くの事を倣っていました」
食事は、きちんとしたマナーに則らずにおしゃべりに夢中になりながら食べていたし、淑女礼などしたこともなかった。
絵を描いて遊ぶことはあっても、本を読んだり文字を書いたりする練習を一切してこなかったのだ。
そんなローゼもレーナも平民だったらよかったのかもしれない。健康的ではあったし、平民であったなら自分の名前だけでも書ければ十分だっただろうから。
しかし貴族に生まれ落ちて魔法を持ってしまったからにはそう奔放に生きることは許されない。母は時折自分にはできない仕事に挑戦をしてストレスを溜めて暴れることがあった。
「私たち二人の親子は学のない平民のようだったと聞いています。きちんとしていなくて、貴族らしくなくて、落ち着きもなくて、学もない。それが何かのせいではなくそういう性質だとしたら、ヨエル様だったらどうしますか?」
「……返答に困る質問だな」
「申し訳ありません。そうですよね。クレメナ伯爵家では出来る限り表に出さず、周りがすべてを判断し、よく躾けることを選びました。それはとても人道的な判断だったと思います。程度によっては、屋敷の奥のそのまた奥に牢を作って閉じ込めるようなこともあるそうですから」
「そうだな」
「だからこそこうして私が図書館に通えて、ヨエル様に出会えたのは多くの人の適切な対処のおかげです。だから、怒っているわけではありません。父にも屋敷の人達にも。ただ私は……」
変わった夫人の変わった娘。二人を何かをやらかさないように守って育てて、跡継ぎにまでしてくれた。
母は離縁されているが、レーナが跡取り娘としてきちんとしている限りは実家に仕送りがなされる。出戻りの、変った母でも生活は保証されているはずだ。
だから感謝していると言っていい。
しかしこのままでいいのかという気持ちがある。
どうしたいかはわからない、けれども何かしなければとは思う。
「……」
「……君は母の性質を継いでいない。そうなんだろう?」
言葉に詰まってしまうとヨエルが質問してくれる。その言葉に、戸惑いながらも頷いた。
「だから、多くの事もわかって、君の周りの人間が知らないところで知識も得た。それを黙っていることが難しくなったんじゃないか」
話の流れからして、簡単な推察だとわかっているのに、ヨエルが言い当ててくれてうれしい。
けれど、人に言われて従うばかりではいけないとレーナは心に決めて言う。
「難しいです。もう、何も知らない自分ではない。それを……示せればと思っています。丁度、私を貶めようとしている人たちがいるので、彼らにも皆にも、示したい」
「貶める?」
言いつつも、よけてあった書類を二人の間にもってきて彼に見せる。
「問答無用でこれにサインをしろと」
「ふーん。安直だな」
「ええ、とても。……でもどうやって示せばいいんでしょう。書類の意味が分かると言えばいいのか、それとも怒って見せればいいのか……どう思いますか?」
「ああ、それが相談事か?」
「はい。お恥ずかしながら」
彼の問いかけに頷くと彼は、にっと少し悪い笑みを浮かべて、いたずらっぽく言った。
「そりゃぁもう、鮮烈にわからせてやればいい。レーナはいわば宣戦布告されたんだ。そうとなれば作戦を立てて完膚なきまでに屈服するまで叩きのめす方法を考えなきゃならない」
「……せ、宣戦布告……」
「ああ、それにそういう相手と戦うためには知恵が必要になるだろう? そういう事の為に、俺はこの場所を開いてる。ぜひ有意義に使って、自分に害をなすものを叩きのめしてほしい」
彼の言葉にレーナは少し驚いてしまう。
だってそんなに苛烈なことをするつもりはない。
やったこともないし、叩きのめしたいと思ったことも一度もないのだ。
しかし、博識な彼が言うのだからそうするぐらい強烈に示さなければ駄目だという事だろう。
レーナだって頑張ればそのぐらいできるのだと、皆に思ってもらえれば、これからだって努力していく原動力に出来る気がした。
「わかり、ました。やってみます。ヨエル様」
「なんなら俺が協力してやってもいいぞ? ここに無い貴重な資料も貸してやるし、俺が後ろにいればその後の後始末だって……」
「いえ、自分の力でやらなければならない事だとしっかりとわかっていますから」
「……だよなぁ。頑張れよ」
ヨエルの提案をきっぱりと断ると、彼はなぜか少しだけ残念そうにして、目を細めて笑ってレーナを応援してくれる。
誰にも期待されなかったレーナはこうして応援してもらうという経験がなかった。いつもやらなくていい、気にしなくていい、大丈夫だと言われて育ってきた。
しかし期待されるというのは心地の良いもので、元気な返事をしたのだった。
レーナは自分についてくれている侍女や、屋敷の上級使用人に同席してもらって、レーナの行動を見届けてもらうことにした。
彼らはレーナが行動すると皆目を丸くして一応付き合ってくれる。いい人たちだ。
そして、アーベルとマイリスには名前を練習しているうちに今度はどこに名前を書けばいいのかわからなくなったと連絡をして、二人そろってレーナを笑いに来るように誘いをかけた。
すると案の定、彼らはよく考えずにやってきて、そこにいる上級使用人や、彼らに囲まれているレーナを見て表情を硬くした。
「どうぞ、向かいにかけてください。アーベル、マイリス」
手で指し示すと、彼らは多くの人の視線を受けて、その場から逃走するということは出来ずに、警戒した様子だったがレーナの前に腰かける。
それから紅茶が出て一息ついた後、レーナは前置きなしに、背筋を伸ばして口を開く。
「私は、アーベルの香水の香りがいつも気になっていました。とても不思議で他では嗅いだことがない香りだと思って」
「は?」
「でも今は知っていますよ。その香水は、一般的には流通していない、ここから西の方にある領地にしか咲いてないスズランの花から少量生成される精油から作られている物ですね」
そして、その香水を使っていて、製造している貴族の家系はたった一つで、それを門外不出としている。その家系には今、年頃の貴族令嬢が一人いる。
もらっているのか、それとも香りが移るほどの事をしているのか。
「あっていますか?」
「だ、だから何だよ、レーナ、というか何だ。突然」
「とても貴重なものですね。どういう関係性でいただくことになったのでしょうか? マイリスも、気になるところだと思います」
「べ、別にいいだろ、彼女とは 何かあるわけじゃない! ただ純粋な好意として貰っているだけで」
レーナの推察は正しかった様子で彼は、指摘してもないのに、彼女と口にして女性から貰った物だと勝手にぼろを出した。
その様子にマイリスは怪訝そうな表情を向ける。
「どういう事よ、そんな話聞いていない。たしかに変った香りだとは思っていたけど」
「だからなにもないって、女から香水を貰っているだけで浮気者扱いするなよ」
「はぁ? 何もない人間は何もないなんて言わないのよ」
「ところで、マイリスは、ここ最近謎の発疹に苦しめられているという話を侍女から聞いています」
彼らの痴話げんかが始まる前にレーナは別の事に話題を移してマイリスを見た。
すると彼女はさっと手袋をつけている自分の手を手で握って、強がるように言う。
「し、知らないわそんな話」
「慣れない手袋をつけるようになったのは、そのためではないでしょうか」
「別に? 違うけど?」
「以前には唇に小さなできものがたくさん出来るとぼやいていたそうですね。あなたの生活から鑑みるに、うつされたのではないでしょうか」
「黙りなさい!!」
「平民の男性は持っていることも多いらしいですから、仕方のない事だと思いますよ。女性を介して男性にもうつるそうです」
「っ……や、やめてよ悪い冗談は……そもそもあなたにそんなことをわかるはず……」
「ライティオ公爵領の図書館で調べました。本の知識なので正しいと思いますよ」
「嘘でしょ? ……嘘、嘘……うそぉ」
「おい、うつるって……まさか」
話の内容を理解したアーベルは、後ずさるようにしてマイリスから離れる。
たった今、病気の事を告げられたマイリスは、そのアーベルの些細な行動に猛烈に腹が立ったらしく、急に眼の色をギラリと変えてアーベルにつかみかかった。
「なによ急に、昨日の夜もあんなに愛し合ったのに!!」
「っ、近寄らないでくれ、け、穢れがうつるっ!!」
「なによ、なによ、なによ、ふざけないでよぉ!!」
彼の胸ぐらをつかんでガシガシと揺すっているマイリスは、その瞳に涙をためている。しかし、自業自得と思うしかないだろう。
彼女の母親は貴族ですらない。平民出身だからこそ、彼女自身も平民の知り合いが多く遊ぶ相手には事欠かなかったのだろう。
しょっちゅう男に手を出していた。
そしてアーベルもマイリスと仲睦まじくしていたが、それだけが本分ではない。きっと本命は香水をくれた令嬢の方だろう。
そのことは、レーナを排除しようとしたことからうかがえる。
「それと最後に、とても重要な話があります。マイリスにとってもアーベルにとっても、どうか聞いてくださいませんか」
取り乱していたマイリスだったが、レーナの言葉に、興味をもつ、二つの有益な情報を出したレーナの話をさえぎるのではなく聞きたいと思ってくれた。
そのことを純粋に嬉しく思って、レーナは続けて彼らに言った。
「私はあなた達の愛が偽物だと知っています。こんな生い立ちですが、たくさん勉強して賢くなったと思うのです。みんなのように。なので、アーベルがクレメナ伯爵家の財産の横取りを計画しているだろうこともちゃんとわかっています」
「……ご、誤解だ。レーナ、謝る、お前を軽んじて悪かった、本当に後悔している」
「浮気の件から察するに、アーベルの本命はスズランの香水を贈った女性でしょう」
「やめろっ!! それ以上言うな!!」
アベールは怒りだし、レーナに手を伸ばそうとする。
しかし、部屋にいた男性使用人たちに取り押さえられて、ソファーに戻される。
「ではなぜ、マイリスと婚約し、私を排除しようとしたのか。合理的に考えればレーナと婚姻しているままマイリスと、楽しく暮らすのが一番良いはずです」
「ど、どうしてなの?」
レーナの言葉を食い入るように聞いてマイリスは縋るように問いかけた。
ちなみに彼女がほかの男性と関係を結んでいたのは、浮気ではなくそういう性分だ。そういう人間もこの世にはいる。
だからマイリスは彼に騙されて、彼の口車に乗って結婚という甘い蜜に誘われてレーナを排除する計画を呑んだのだろう。
「私が貴族としての地位を失って、罪に問われるようなことがあり排除された場合、爵位はマイリスにわたるでしょう。
しかし魔力が極端に少ないマイリスは領主として魔力を日々捻出すると体が弱るなり、もしくはアーベルの計画によって早世することになります。
すると、爵位継承権者はいなくなり爵位返上という流れになります。
私でも同じではないかと思われるかもしれませんが、私が貴族として爵位をついでその財産を手に入れた後に死んだとき、それは私の母に半分ほど相続されます。
婿に入ったクレメナ伯爵家の家財は、アーベルが自由に使えるでしょう。しかし、母方の実家に送られたらせっかく多額の金銭を手に入れられるのに私では半分になってしまう。
しかしマイリスに爵位を継承させて、死んだとなるとマイリスの実家は相続権を持っていません。マイリスの実家は平民ですから。
これが本命がいた上で、アーベルがマイリスを愛していると嘘をついてまでやりたかったことです」
レーナは終わりにそう告げてアーベルを見た。すると彼は暴れないように抑えられたまま言葉が出てこない様子で俯いている。
反論も思い浮かばないらしい。
浮気の件以上の真実を告げられたマイリスは、呆然としてアーベルを見つめている。
しかしこれで終わりではない、レーナは続けて言った。
「それに、アーベル、先日の私の罪の自白書ですが、あれは公的な調査を故意に妨げる代物です。もちろん作成したこと、私に書かせようとしたことは、罪になります。その件について父を経由して王族に告発しておきました。丁度ここにほら」
彼に見えるように婚約解消の書類と、罪の自白の書類を並べて見せる。
「婚約解消の為にあなたが作ったことを証明できる書類が、この書類の筆跡とまったく同じになっていますから罪はすぐに認められるでしょう」
「っ、レーナ、レーナ! 違うんだこれは、ほら、お前は優しい子だろ! 俺は、ただ、っ、そう、悪魔にささやかれてこんな愚行を!!」
「……」
「許してくれ! お前を侮っていてすまなかった! これで満足だろう!!な? だから許してくれっ! 後生だ!」
彼は使用人たちに抑えられたまま、それでも必死に頭を下げてテーブルに頭をこすりつけてレーナに頼み込んでくる。
しかしその頭を隣に座っていたマイリスがバチンとたたきつけた。
「まず私に謝りなさいよぉ!! このクズ!! そんなこと考えてたのね! 許せないっ」
「触るな! 性病女!」
彼らは醜くののしりあって、それを眺めながらレーナは周りにいた使用人たちに視線を向けて、聞いてみた。
「……私がたくさんのことを理解できるようになったと知ってもらえましたか?」
「ええ、それはもう」
「お嬢様、参りましょう。これからのクレメナ伯爵家の事を話し合わなければ」
「はい、ここでは騒がしすぎますからね」
そう言って、彼らと共に応接室を後にする。
彼らの表情はアーベルのとんでもない計画が暴かれた後だというのに、どこか希望に満ちていて、侍女は何故か感動している様子だった。
場違いだとは思ったけれどそれほどまでに、きちんと示すことができたのだと嬉しく思ってレーナは、もうアーベルもマイリスも見向きもしないで彼らと歩き出したのだった。
━━━━というわけで、アーベルの罪に対する刑罰自体は軽いものでしたが彼の実家にとってはひどい醜聞です。きちんと再教育を施し、クルメナ伯爵家には絶対に関わらせないそうです」
「そうか、妥当だな」
「マイリスは、治療の為に国の王都を挟んで反対側にある白魔法を扱う貴族の元に向かいました」
レーナは喜び勇んで、ヨエルに報告に向かった。彼がアドバイスしてくれたおかげで、レーナは自分が賢くなったことを示すことができたのだ。
そのことにお礼を言うために事情を説明して、改めて言う。
「長い移動や大変な治療をとおして自身の事を見つめ直して、これからの人生をどういうふうに生きるか考えるようにと言って送り出しました。良い機会になったと思います」
「……」
「助言と、図書館を利用させていただいて、ありがとうございました。こちらはお礼の品です。ほかにも何か私にできることがあれば教えてください」
「……」
レーナは、スッキリとした笑みを浮かべて、王都から取り寄せた高級なお菓子を彼に差し出したが、彼は肘をついて口元に手を当ててなんだか考えている様子だ。
それに、喜んでくれると思ったがあまりに反応が薄い。
もしかして彼の期待に沿えなかったのだろうか。
少し不安になったが、ヨエルはお菓子を受け取って、寂しいような笑みで言った。
「ありがとう。受け取っておこう。……本当はもっと君に協力をしたかったが、今となっては後の祭りだな」
「その気持ちは嬉しいですが、そこまでしてもらうわけには行きません。……あの、うまく行ったことを喜んで下さらないのですか?」
残念そうにいう彼に、レーナも不安な気持ちになって問いかける。彼に何か不都合があることをしてしまったのではないかと思った。
しかしヨエルは、レーナの心配そうな表情にすぐに首を振って、切り替えた。
「もちろん喜ばしいと思ってる。ここに通い始めたばかりの頃は、口に出して絵本を読んでいるぐらいだったのに、君が家の者に認められたと聞いて嬉しくないわけがない!」
「……では、どうしてそう残念そうなのですか?」
切り替えてそう言った彼に、レーナはヨエルの本当の気持ちを聞きたくて、さらに問いかけた。
すると彼は、困ったような顔をしてから、レーナの事を見て、それからちらりと周りを見る。
またレーナの事を見て、結局レーナが真剣に問いかけていると判断したのか観念したように言った。
「……もう、レーナはここに来ないだろう。毎日ここに通っている君と些細なことを話すのが俺は好きだった。本当は助けてやって恩を売って、もっと話す機会を作れるように画策するつもりだったが……君が自立しようとしているのに、それを邪魔するのは醜い事だろう」
寂しそうにヨエルはつづける。
「こういう場所は、よりどころであって家じゃない。おのずと自分の帰る場所に帰っていく、寂しくても見送らなきゃいけない。気が向いたらまた寄ってくれ。俺は大体ここにいるから」
そう言って話は終わりだとばかりに立ち上がるヨエルは、いつもの余裕のある様子とは違って、彼が本当にレーナとの別れを惜しく思っているのだと思った。
レーナはよく人の顔色を見て育ってきたので、そのぐらいはわかる。
しかし、そんなふうに彼が傷つくなんて想像もしていないし、何なら急にここに来なくなったりするつもりはない。
それにレーナだってヨエルと同じだ。
「まって」
立ち上がって、彼の手を取った。ぎゅっときちんと握ってレーナは屈託なく笑った。
「私は明日も明後日もここに来ます。ずっと来ます」
「……いい、無理しなくても家でやりたいことがたくさんあるだろ?」
「それもありますけれど私も同じです」
「同じ?」
「はい。あなたと同じです。ヨエル様と話をするのが楽しくて、毎日だって会いたいです。良ければ図書館以外でも……ダメですか?」
問いかけてみるのに勇気は特にいらなかった。
ヨエルはその誘いに、救われたような顔をして「ダメなわけないだろ」と笑ったのだった。
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