想いを叶えるたった一つの方法
「好きです! 愛しています!」
冒険者たちで賑わう町酒場。
突然現れた少年の告白に、階上で鳴り響いて楽器団の音楽が止まった。
酒場の誰もが手を止めて、二人の男女を見守っていた。
酒場のマスターも、給仕も、冒険者も、冒険者でない者も。
告白を受けた、赤毛に一束の白髪をもつ女性――アザレアは、目頭を押さえた。
「えっと……どちらさまですか?」
これが二人の始まりだった。
◆ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『カロルの町酒場』と言ってこの町で知らない者はいない。
くたびれた外装に反して、数ある町酒場でも一番の人気を誇っているお店だ。
夕食の肴に階上で演奏される楽器団は好評で、日没後になると客足が絶えない。
その一席に座るのは、赤髪赤眼の気の強そうな美女と、鮮やかな橙髪橙眼の美女が二人。
二人の美女は周囲の注目を浴びていたが、それは何もその美しさだけが原因ではなかった。
「――ぷはぁー! アザレアの竜退治を祝してもう一度かんぱーい!」
「クロサンドラはなんで乾杯の前にもう飲んでるのよ……」
別にいいけど、と呟くとアザレアもジョッキに入った果実汁へ口をつけた。
古今東西で伝説と言われる竜退治。
それを単独でアザレアが先日に成し遂げたのだ。
この町の話題は、この町だけではない。この国の話題はここのところ彼女で持ちきりだった。
「あ、お兄さん。こっちに適当につまみとアテ持ってきてくれる? あとエールのおかわり、もちろん大ジョッキで!」
階上では、店の楽器団がノリの良い音楽を奏で始めていた。
景気の良い音楽に周囲ではまばらな拍手と歓声が上がった。
「それにしても、単独で竜退治なんて偉業じゃない。これでこの町最強どころか大陸最強を名乗れるわね」
「わざわざ名乗らないわよ、そんなの」
「えー、かっこいいのに」
クロサンドラはその反応に唇を尖らせるが、給仕の男がつまみの盛り合わせとエールを持ってくると、その表情がすぐに幸せな表情に変わる。
「そもそもアザレアの魔法は反則なのよ、何よ、時空間魔法って。イカサマじゃない?」
「それが私の天与の才なんだから。それに『時空間魔法』って言うと万能なように聞こえるけど、制約も代償も大きいんだから。私はこの力が好きじゃないわ。だから、ほとんど使ったことなんてないわ」
それに使うとおばあさんみたいに髪の毛が白くなるのよ、と言って赤毛の中にある一束の白髪のつまんでみせた。
クロサンドラはそれを見て、じゃあ気軽に使えないねー、とケラケラ笑う。
「竜を殺したらって何でも願いが叶う、って聞いたけどほんと?」
クロサンドラが続けてそう問うと、
「そんなわけないでしょう」
アザレアは呆れたように笑った。
二人は机の上の料理に舌鼓をうつ。
「なんにせよ、これでアザレアは正式に上級冒険者の仲間入りだね」
「まだ申請中だけどね」
「この町から上級冒険者かー。領主さまも喜んでいるんだろうなー」
「まあね。なんか色々と高そうなものを貰ったわ」
「えー! いいないいな!」
アザレアがいるなら私もなろうかなー! とクロサンドラが笑う。
「あとは領主さまの息子をどうだ、って……」
「えーッ! 玉の輿じゃん! 玉の輿! どうするの!? ねぇ、どうするの!?」
「落ち着いてよクロサンドラ」
椅子から立ち上がり、身を乗り出したクロサンドラをなだめ、席に座らせた。
クロサンドラは顔の前で左右の指を合わせて、もじもじとさせながら、
「でも、ほら、アザレアも、そろそろ、ね?」
アザレアはクロサンドラの顔を直視することはできなかった。
「やめてよ……。急にそんな真剣な表情になるのは……。笑えないじゃない……」
「私が旦那と結婚したときは、あんなに『愛されたい! 私も愛されたい!』って泣いていたのにね」
それはアザレアにとって忘れたい過去の一つ。
親友であるクロサンドラの結婚式で羽目をはずして酒を飲み過ぎた結果がもたらした黒歴史。
アザレアは赤くなった顔を隠すようにジョッキを傾けた。
「結婚はいいぞー! なにせ自分の帰りを待ってくれる人がいる。それだけでエールが呑める!」
そう言って、クロサンドラは届いたばかりのエールをぐびぐびとあおると、
「ぷはぁー、おかわり!」
とてもいい笑顔で空になったジョッキを給仕へと向けた。
アザレアは頬杖を突くと、
「結婚、ねぇ……」
幸せそうに結婚を語るクロサンドラを見つめながら、しみじみと呟いた。
知名度もあり、実力もあるアザレアに言い寄る男たちはいつもいた。
だが、言い寄ってくる男たちはその知名度と実力目当てばかり。
そうした過去の経験から、いつからか男女の関係に辟易して、冒険へといっそうのめり込むようになった。
アザレアが過去の恋愛経験を振り返っていた時だった。
酒場の扉が開き、ローブ身に纏った人物が入ってきた。
席の配置から、アザレアにはその姿がなんとなく目に留まった。
「どうかしたの?」
「ううん。いま店に入ってきた人。ずいぶんと珍しい服を着ているな、って。久しぶりに見たかも」
「たしかに。私は初めて見るわ。なんだろう、なんか強そうね」
「うーん……。立ち姿や風格から言って、その反対ね」
「でたよ。アザレアスカウター」
「やめてよ。クロサンドラがそうやって茶化すから最近冒険者たちの中でも『アザレアさんのスカウターから見て俺はどうですか!?』なんて言う輩がでてきて困っているんだから」
怒ったふりをするアザレアに、ごめんごめんとクロサンドラは笑って謝った。
フードを被った人物の視線が、そんな二人の座る席に固定される。
「ありゃ? 彼? 彼女? こっちに来てない?」
「おそらく男性よ。もう、あなたが騒ぐから……」
ローブの上からでもわかる筋張った体つきには、女性特有の丸みが見られない。
二人に見定めたフードの人物の足取りは二人の席で立ち止まった。
フードの中の闇から無言で二人を――アザレアを見つめている。
アザレアはフードの中を見つめ返し、
「どうかしましたか?」
そのフードが本の手で取り払われた。
フードの下から現れたのは、落ち着いた茶色の髪と瞳をもつ、まだ十代半ばぐらいの容姿をした少年だった。
「あの、聞こえてたのならごめんね。アザレアスカウターなんて冗談だか――」
「好きです! 愛しています!」
少年がアザレアの前で突然跪いたかと思うと、少年が声を張り上げた。
少年の告白に酒場の空気が止まった。
あれだけ騒がしかった周囲の喧騒も、酒場ご自慢の階上の楽器団の音楽もまた。
アザレアは、目頭を押さえた。
「えっと……どちらさまですか?」
◆ ◆ ◇ ◇ ◇ ◇
アザレアは周囲に元の世界に戻るように言うと、再び酒場は騒がしさを取り戻した。
その間にも、クロサンドラはどこからか椅子を調達して、少年の席を用意した。
「す、すみません……!」
「いいのいいのー。それで二人はどういう関係? ねぇねぇ。アザレアもツバメを囲っているならそうと言ってくれたらよかったのに――」
「誤解よ。私たちは初対面だわ。そうよね?」
「いえ、ずっと昔に一度――」
「ずっと昔! はい! ノーカン!」
アザレアは顔の前で両腕を交差させた。
「えー! じゃあそれからずっとアザレアを想い続けて?」
「は、はい……」
きゃあー! 純愛じゃない! とはしゃぐクロサンドラは嬉しそうにエールを飲み干す。
「よかったじゃないアザレア! 前途有望な少年よ! 私好みの益荒男ではないけど彼、整ったかわいい顔しているじゃない! 将来は絶対に女の子を泣かせる子に成長するわ!」
「そんな、将来なんてありませんよ」
「いいえ、あるわ。ね? アザレア」
「知らないわよ……」
カロルは止まらなかった。
「アザレアのどこに惚れたの?」
「優しくて、頼りがいがあって、約束を守ってくれるところが……。あっ、もちろん、お顔も好きです……」
クロサンドラがカロルから口元が見えないように手で壁を作ると、
「……あなたいくら払ったの?」
「……いくらクロサンドラでもぶっ飛ばすわよ?」
口元は笑っていたが、その目は笑っていなかった。
アザレアはため息を吐くと、
「そもそも、私は彼の名前すら知らないのよ」
「す、すみません。名乗り遅れました。ぼくはカロルって言います」
「あら奇遇ね! この酒場と同じじゃない! アザレア、これは運命かもしれないわ!」
「きっといま世界が滅ぶとしてもあなたはそう言うのでしょうね」
カロルが来てからと言うもの、目をずっとキラキラとさせているクロサンドラを見て、アザレアは肩を落とした。
「ごめんなさいね、カロル。私はあなたのことを知らないわ。知らない人とお付き合いするのは――わかるでしょう?」
アザレアはやんわりと拒絶の意を示した。
「じ、じゃあ、知ってもらいたいです! ぼくを! アザレアさんに!」
「て、てぇてぇ……」
クロサンドラは懐から手ぬぐいを取り出すと、眦をぬぐう素振りを見せた。
目を輝かせて言われた純粋なその返しにたじろぐアザレア。
「うぐぅ……。た、ただ知るだけじゃ、だ、ダメよ?」
アザレアは言葉を選ぶ。
なんとかして諦めてもらおうと。
「お付き合いするには、私が魅力的に感じないといけないんだから。私は地位も名誉もお金も持っているわ。そんな私にあなたは何ができるのかしら?」
「うわぁ、いやな女ぁ……」
正面に座るクロサンドラが鼻に小じわを寄せながらそう言った。
アザレアも自分で言っておいて、
――これ、かなり悪女なのでは?
と思っていたがもう後には引けない。
顔を赤く染めながら、カロルを見つめる。
「はい!」
幸か不幸か、カロルにとってはそんなことは気にもならなかったようだ。
アザレアはほっと胸を撫で下ろした。
◆ ◆ ◆ ◇ ◇ ◇
カロルによるアザレアへの突然の告白からひと月の時間が流れた。
再びアザレアとクロサンドラは例の酒場で同じ卓を囲っていた。
「――それで、どう?」
「どうって? カロルのこと?」
「当たり前じゃない。他に誰がいるのよ? この万年干物女が――」
鋭い拳骨がクロサンドラの脳天を打ち抜いた。
クロサンドラはしたたかに額を机に打ちつけた。
アザレアは何事もなかったかのように、
「どうって? カロルのこと?」
「はひ……」
赤くなった額をさすりながらクロサンドラが体を起こす。
その瞳は涙で潤んでいた。
「悪い子じゃないんだけどね。色々と弱いのよね」
「弱い? それはアザレアみたいな――」
アザレアがハァーと拳に息を吹きかけると、
「――アザレアと比べると酷ってもんじゃないの?」
アザレアは満足そうに頷いてみせた。
「うーん、私の実力が飛びぬけているのは否定しないけど……。彼、どんくさいのよ」
「どんくさい?」
「そう。手際が悪いというか。若いから経験がないのもあるのだろうけれど……」
この一か月。何をやらせても失敗ばかり。
唯一評価できるのが、前向きな姿勢と料理の腕だけ。
「あとは喧嘩や狩りの経験もないみたいで、薬草採取も難しそうなのよ」
「最低限の自衛手段がないと、最下級の依頼といえど任せられないものね」
「それが気に入らないの?」
「ううん、そんなことないわ。ただ、うーーん って感じかな」
都市近郊での薬草採取と言えど、いつなにが起きるかわからない。
「がんばり屋さんで、いい人って感じかな」
「そっかー」
なにかを悟ったのか、クロサンドラは寂しそうに笑った。
「そうなの。例えば私のために毎日お弁当を作ってくれて」
「――ん?」
「毎日部屋の掃除をしてくれるから部屋も随分と見違えたし」
「――んん?」
「それに洗濯だって丁寧にしてくれるから助かってるわ」
「――んんー?」
アザレアが話を進める度に傾くクロサンドラのその首の角度は、直角にまで達しようとしていた。
しかし、アザレアの話はそれで終わりではなかった。
「それに私が部屋で座って寛いでいたら飲み物を入れてくれたり、依頼を終えて、疲れたなぁ、って言ったらマッサージしてくれたり、あとそうそう。寝る前には彼のおすすめの本を朗読してもらうんだけど、彼の声を聞きながら寝ると不思議と寝つきが良くて、それで朝起きたらもう食事の準備ができているし――」
クロサンドラは椅子から盛大に転げ落ちた。
「ち、ちょっと待って! アザレア。詳しく……説明して。いま私は冷静さを欠こうとしているわ」
「え? あぁ、ごめん。確かに彼にはお弁当を作ってもらってはいるけど、厳密には毎日ってわけじゃ――」
「ちがう! そこじゃない!」
「ん? 彼の身持ちの固さ? そうなんだよ。彼は存外に恥ずかしがりでね――」
「ちがう! そこでもない!」
クロサンドラは立ち上がっていた。
周りの視線が集まるが、それを気にする様子もない。
アザレアはひとまずクロサンドラを席に座らせると、
「じゃあ、なによ? どうしたのクロサンドラ?」
「あなたたち――同棲しているの?」
「なんだ。そんなこと? しているわよ」
「早くない? 同棲早くない!?」
アザレアとカロルがこの酒場で実質的に出会って一ヶ月。
「クロサンドラだって、そろそろ、と言っていただろう?」
「え? なに? 彼と結婚するの?」
「まぁ、その、彼の気持ちが、変わっていなかったら、だけど……」
クロサンドラはエールをぐびぐびとあおると、
「アザレアがチョロかわいいんですけどッ!!」
そう叫びながら空になったジョッキで机を叩いた。
「さっきの『うーーん』は!? 『いい人』発言はなんだったの!?」
「結婚したらどういう役割分担にしようかな、って。いい人発言って……所帯を持つならがんばり屋さんでいい人が伴侶の方がいいでしょうに」
「めちゃくちゃ乗り気じゃん! それは本人に言ってるの?」
「本人にって、カロルに? まだ言ってないわ。彼を前にするとどうにも照れくさくて」
断られることはないだろう。でも、重い女と思われたくはなくて。
なんだかんだで、まだ告白の返事すらまともに返せていなかった。
「私は私が認めた男としかアザレアと付き合うのは認めません!」
アザレアは小さくため息を吐くと、
――この酔っ払いめんどくさいな。
そう思った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◇ ◇
またひと月の時間が流れた。
いつものようにアザレアとクロサンドラは例の酒場で同じ卓を囲っていた。
「悪いわねアザレア。急に呼び出して」
「いいわよ。クロサンドラとこうして顔を会わせるのも一か月ぶりだから」
クロサンドラは給仕を捕まえると、大ジョッキのエールと果実汁、それに適当につまみを注文する。
「それはあなたがあの子とイチャイチャばかりしてるからでしょうに。薄情な奴め」
「……薄々思っていたけど、逆にクロサンドラは旦那を放置し過ぎじゃない?」
「いいのいいの。互いに束縛しないこと。それが一緒になる条件だったから」
他愛ない話に花を咲かせていると、給仕の男が飲み物と料理を持ってきた。
「それじゃあ、私たちの友情にかんぱーーい!」
クロサンドラが元気よくジョッキを掲げると、アザレアは声には出さなかったが手にしたジョッキをクロサンドラのジョッキへと優しくぶつけた。
料理とお酒に舌鼓を打ち、最近の近況を共有し合う二人。
気の置けない友人との久しぶりの食事に会話も弾む。
ふと酒場の入口に視線を送ると、外では雨が降り始めていた。
視線をクロサンドラに戻したアザレアは、
「――それで話があるんでしょ?」
「……わかる?」
「クロサンドラとはそれなりの付き合いだからね」
それに今日のクロサンドラはいつも以上に落ち着きがなかった。
「……カロルのことなんだけど――」
「あぁ、それはちょうどよかった。私も結婚式場についてクロサンドラに相談したいと――」
「――彼はもう死んでいるわ」
――は?
アザレアの開いた口から言葉はでなかった。
ただその吐息だけが漏れた。
意味がわからない。
クロサンドラは何も言わず俯いていた。
その表情は彼女のその鮮やかな橙髪で覆い隠されていた。
「……頭、大丈夫か? 飲みすぎ、ではないようだけど、彼が死ぬなんて冗談はさすがに笑えない」
「違う、違うの……」
クロサンドラは俯いたまま頭を横に振った。
「違うのは知っているよ。カロルは今も首を長くして私の帰りを待っている頃だろう」
「違うのッ!」
クロサンドラは俯いたまま、叫んだ。
「なんだ? どうしたんだクロサンドラ?」
クロサンドラはよく冗談を言うが、こういう笑えない冗談を言うことは今までになかった。
「彼は死なないわ、ううん、死ねないわ――」
「当たり前だ。私と式を挙げるまでは私が――」
「――だってもう死んでいるもの」
――守るから。
アザレアは目を見開いた。
わなわなと肩を震わせ、
「……いい加減にしてクロサンドラ。さすがの私も怒るわよ」
本気で肩を震わせるアザレアに、クロサンドラは震える口を開いた。
聞けば、クロサンドラはこの一ヶ月カロルの痕跡をたどっていたのだという。
本気で調べてわかったカロルの事実。
隠すことはできた。でも、隠したくはなかったのだとクロサンドラは言った。
そして、告げられる事実。
クロサンドラの話を聞き終えるとアザレアは、彼女を残して一人店を飛び出した。
雨が彼女を打った。
それを気にも留めず、アザレアは矢のごとく走り出た。
走った。アザレアは走った。
町の外れにポツンと位置するアザレアの屋敷。
その屋敷には明かりが灯っていた。
カロルがいつものように、夜食の準備か翌日のお弁当の下ごしらえでもしているのだろう。
アザレアは閉ざされていた屋敷の正門を蹴破るように開いた。
屋敷の警護のためにアザレア自身が張った魔法障壁の抵抗を感じたが、それすらも力づくでぶち破った。
庭を駆け抜け、屋敷の扉も強引に開け放つ。
濡れた体が床を濡らすことを構わずに、ずんずんと明かりの灯る居間へと向かう。
ちょうど居間へその足を踏み入れたとき、
「おかえりなさいアザレアさん」
カロルはいつもの笑顔で、帰ってきたアザレアを迎えた。
料理用の前掛けをしていることから、カロルは料理の途中だったのだろう。
パタパタと駆け寄ってきたカロルは、
「ご飯にします? お風呂にします? それとも――」
「――を……で……」
アザレアはカロルの顔をまともに見ることができなかった。
「え?」
カロルは目を丸くした。
それは十代半ばの見た目相応のかわいらしい反応だった。
「服を、脱いで……」
「どうしたんですか? アザレアさん」
心配そうに差し出された手をアザレアは振り払った。
袋に覆われたカロルの手を。
思い返せば、いつだってカロルはその素肌をアザレアへ晒そうとしなかった。
「いいから服を脱いでッ!」
アザレアの怒鳴り声が部屋に木霊した。
一瞬だけ逡巡する姿を見せた後に、
「……それがアザレアさんの望みなら」
カロルはアザレアの命令にしたがった。
下着姿となるカロル。
そして、アザレアは絶望する。
「――そんな……嘘だ。嘘だと言って……」
カロルの体は、人のそれではなかった。
その体は上半身から下半身に向かうにつれて透明に透けていた。
足の指にいたっては意識しないと見えないほどに。
人というより、幽霊と言ったほうが近い。
それがアザレアの前に姿を現したカロルの正体だった。
「残念です……。ここまで、みたい、ですね」
「カロル、お、お前は……?」
目を見開くアザレアにカロルは、
「ぼくは竜の魔力で生き返った、あなたに想いを焦がれた一人の男です」
「どう……して……?」
「……カロルさんが竜を倒した際に、行き場のない竜の魔力で蘇ったみたいです。そのあたりは正直ぼくもあんまりわかっていません。カロルさんを愛する者。たぶん、その一点だけでぼくが選ばれたんだと思います」
竜――それは奇跡の化身。天空の覇者。神の使い。
呼び方は数あれど、どれにも共通して言えることは超常の存在であるということ。
寝物語で語られる悪者のように倒しておしまい、ではなかったのだ。
「だまして、たの……?」
「違います! だましてなんかッ、いません……。ぼくのアザレアさんに対する気持ちは本物です。ぼくたちが出会ったあの日、町酒場で出会ったあの日からずっとッ! この命が偽りでも、この気持ちは嘘じゃないですッ!」
それを聞いてほっと胸をなでおろす。
それならまだやり直せると、二人の関係はここから始められると。
「そ、それならこれからもずっと、私と……!」
カロルは悲しそうに笑うと、フルフルとその首を横に振った。
「ぼくの存在は呪いなんです。それはできません」
アザレアにはカロルの悲しい笑顔の理由がわからなかった。
「一つ謝らないといけないことがあるとすれば、それはぼくがアザレアさんと生きたいと願ってしまったことです」
「え?」
「竜の呪いは正体がばれると、その効果を失うようなんです。だから、本当にアザレアさんのことを想うのなら、ぼくはすぐにでも正体を明かすべきだったんです」
見ると先ほどまで見えていた足先から、徐々にカロルの体が見えなくなっていた。
アザレアの顔がサッと蒼に染まる。
「でも、それができなかった……。ぼくが弱かったから。一秒でも長くアザレアさんの隣にいたくて。一回でも多くアザレアさんの笑顔を見たいと願ってしまったから」
今の今まではっきりと見えていたカロルの顔も、いつの間にか向こう側が透けて見える。
それは否が応でも別れが迫っていること知らせていた。
なにか言うべきだ。
でも、まとまらない思考の中では、ただの一言も言葉が口をついて出てこなかった。
「弱いぼくでごめんなさい。これが最期になると思います」
震えるアザレアの唇。いや、アザレアの体。魂が震えていた。
――いかないでッ!
アザレアがそう言おうとした矢先、カロルの半透明な頬に一本の線がつたった。
その綺麗な流線にアザレアは目を奪われた。
カロルは泣きながら笑っていた。
「――好きです。愛しています」
それがカロルの最期の言葉だった。
カロルがアザレアの前に現れたのも突然の出来事であれば、
カロルがアザレアの前から去るのも突然の出来事であった。
アザレアはカロルに、まだ告白の返事を返せていなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◇
降りしきる雨の中、町はずれの夜の山奥。
アザレアはクロサンドラと初めて本気の喧嘩をした。
――クロサンドラがカロルの秘密さえ暴かなければッ!
それはただの八つ当たりだった。
アザレアもそれはわかっていた。ただ、何かにあたらずにはいられなかった。
「満、足した……?」
この町で唯一アザレアと比する実力を持つクロサンドラ。
その彼女は傷だらけで大地へと仰向けに倒れていた。
クロサンドラはアザレアにされるがままだった。
しかし、泣いているのはアザレアだった。
「行きなさいアザレア」
倒れたままの姿勢でクロサンドラは空を見上げて言った。
アザレアは息を呑んだ。
「でも――」
クロサンドラはアザレアに彼女のギフテットワンを使うことを促したのだ。
アザレアのギフテットワン<刻の旅人>。
魔力を消費することで時空間移動することができる超常の力。
しかし、制約は膨大な魔力を消費すること。代償は時空間移動のために消費した魔力は回復しないというもの。
何より重要なのは時空間の改変ではなく、時空間の移動。
それは数多ある可能性の世界へと本人だけが移動するというもの。
さらに、移動した世界が移動前の世界と同じ結果を辿る保証はない。
そして、移動は一方通行で帰ってくることは叶わない。
つまり、やり直しの効かない片道切符。
<刻の旅人>の力で時空間移動するということは、移動前の世界でそれまで培ってきたすべてを棄てるということに等しい。
それはクロサンドラとの友情も例外ではなかった。
「私のことはいいから。こっちの私は旦那さんと楽しく幸せに暮らすから」
「……うん」
「好きになれたんでしょう? 愛せたんでしょう? 彼のこと」
「……うん!」
「ただ、そうね……。もしそっちの世界の私が旦那さんとくっつきそうになかったら、ちょっとだけ背中を押してくれる? アザレアの話なら私も話は聞くと思うわ」
クロサンドラは今でこそ丸くなったが、昔は相当な暴れん坊だった。
それを諫める形で出会ったのが彼女の旦那。
それを考えると、にわかに首肯はしずらかった。
アザレアが手を差しながら、
「……それは……どうだろうね」
「……言うじゃない」
クロサンドラはその手を取って立ち上がった。
泥だらけの二人は顔を見合わせて笑った。
いつしか雨は止んでいた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
先日開店したばかりの真新しいとある町酒場。
立地こそいいものの、そこには客足がついておらず、書入れ時の夕食の日没を迎えたというのに、店には閑古鳥が鳴いていた。
一階も二階の客席にも利用客の姿が見えない。
「い、いらっしゃいませ!」
「随分と空いているわね……」
アザレアが店に入ると、マスターがカウンターの奥から小走りで出てきた。
その顔には隠せない緊張が浮かんでいた。
「て、手前でもはつい先日にこの店を開いたばかりでして……」
「ふーん……。お店の名前は?」
「そ、それもまだ決めかねているところです」
「そう」
室内を見渡すと、たしかに調度品は目新しいものばかりだった。
鼻を利かせると、新築の建造物独特の樹脂の香りが肺を満たす。
「ところで、従業員はあなた以外にいないの?」
「いえ、うちの倅が働いています。何か御用で?」
怪訝な表情を浮かべるマスターにアザレアは微笑みを浮かべると、
「そうね。彼に料理を運んできてもらえる?」
「は、はぁ。それは構いませんが。倅とは知り合いかなにかで?」
「それは秘密」
そう言って料理と飲み物を見繕う。
しばらく待つと、かつて見慣れたあの愛くるしい少年が、おぼつかない足取りで料理を持ってくるのが見えた。
アザレアは心がはやるのを抑えられなかった。
思わず立ち上がると、少年の下まで歩み寄り、その手に持った料理の乗ったトレイを受け取った。
「あ、ありがとうございます」
半袖半ズボンからのぞく素肌は、幾分か汚れてこそいたが、若者特有の瑞々しいハリがあった。
初めてじゃない彼の顔、初めて見る顔以外の彼の素肌。
少年はアザレアの顔を見て――瞳を見て少し驚いた様子だった。
「ふふ、オッドアイを見るのは初めて?」
「は、はい。す、すみません。ジロジロ見て」
アザレアの赤と白のオッドアイが少年の眼を引いたようだ。
時空を超えた結果、髪色に留まらず、左眼もその色を白色へと変えていた。
「いいのよ、あなたは、あなたなら」
アザレアの言葉に、少年は怪訝な顔を浮かべ、
「え、えっと。そ、それって、どういう――?」
質問を遮るように、アザレアは彼の――カロルの前で跪いた。
真っ白に染まった髪がふわりと舞った。
そして、カロル手を取ってその温かみのある茶色の瞳を見つめると、
「初めまして。好きです。愛しています」
アザレアと少年以外には誰もいない酒場の客席に声が響いた。
これはただの自己満足。
ただこれを言わずにはいられなかった。
その言葉には時空を超える価値があった。
告白を受けたカロルは目を白黒させたあと、その目頭を押さえた。
「えっと……どちらさまですか?」
これが二人の本当の始まりだった。
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よろしくおねがいします。