されど、空の深さを知る
その男は、体のあちこちに黒い苔が生えていた。正確には、腕や脚にこびりついた垢が、苔のようにびっしりと、皮膚の下に根を張っているのだ。
最後に湯船に浸かったのはいつだったか。彼は思い出せないでいた。不衛生な環境に慣れすぎて、嗅覚は完全に麻痺していた。この六畳間に充満している悪臭にすら気づかないくらいだ。
ふと、彼は壁にかかった時計に目をやった。時刻は昼の十二時を回ったところだった。
昼夜逆転生活が日常と化した彼にしては、珍しい時間に目が覚めたものだった。
薄暗い部屋の小さなガラス窓は、黒いカーテンで閉め切られている。カーテンの隙間から陽は差してこない。
きっと天気が悪いせいだと、彼は布団の上で胡坐をかいたままぼんやりと思った。
伸びきった白髪混じりの髪をボリボリ掻きむしる。硬く黒く変色した指と指の間に、細く頼りない毛髪が何本か絡みついた。
学校でのいじめが原因で中学三年の夏休みを機に引きこもるようになってから三十年。
優秀な弟や、頑固な両親の侵入を決して許さなかった彼の部屋は、さしずめ、忘れられた古井戸の底だ。完璧に外の世界と遮断された空間だった。ネット回線契約は、両親の手でとっくの昔に解約されていた。
地上二階の角に位置する井戸の底は、支配者である彼と、彼の孤独な世界観に付き従うしもべたちで敷き詰められている。
カビとダニまみれの布団、ワンルーム用の冷蔵庫、とっくに壊れたテレビとパソコン、本棚を隙間なく覆い尽くす大量のマンガ本や小説……本棚に入りきらない分は、厚みもサイズもバラバラに、捨て石のように枕元に積み重ねられている。
社会という名の大海に出ることを拒否し、隔絶された古井戸の底で暮らし続けているうちに、彼の心は見えない圧力にやられて、日に日に脆弱していった。
毎日が恐怖との戦いだった。せんべい布団の上で目を覚ます度に、容赦ない現実が心の奥底を擦るように這いずり回るのだ。
引きこもり生活を初めた当初は、ここまでの事態になるとは想定もしていなかった。
大丈夫、大丈夫、いつも通りだ。いつも通りの引きこもり生活だと、自らに言い聞かせてきた。
まだ十代だ、いくらでも挽回できると、有り余る未来と若さを盾に自分を誤魔化し続けた。
時間はある。そのうちに人生を取り返せる。だから、焦ったってしょうがないんだ、と。
それでも、二十歳を過ぎ、三十路に差し掛かる頃合いになると、楽観主義が通じなくなってきた。
クリアするべき課題の全てを忘れたまま迎える、夏休みの最終日のような心持ちで、日々を過ごさなければならなかった。
悔しくて涙が溢れ、嗚咽を漏らし続けた。
無性に腹立たしくなって、部屋の壁を夜通し殴り続けた日もあった。
だが、壁に穴を開けたところで、ストレス発散以上の効果を得ることはなかった。
疲れ果て、また明日考えようと布団に潜り込み、そして翌日、目が覚めて後悔する。
その繰り返しだった。
今日、この日までは。
部屋を出よう――真剣に決意した。
チェコの有名な作家が書いた、一冊の小説を読んだことが、決め手だった。主人公の男が、ある朝目覚めると巨大な虫の姿になっていたという、この世の理不尽の全てを煮詰めたような小説だ。
虫になった男は、まぎれもない自分自身のことだと、彼は直感した。
ページを捲る手が止まらなかった。面白いと感じたからではなく、強烈に身につまされる感覚に襲われたせいだ。そんなことは、彼のこれまでの人生で一度だってなかった。
これは自分のことについて書かれた本だ。
読み進めれば読み進めるほど、その認識は強化され、より強固な印象となって、彼の壊れ果てた心に棲み付いて離れなくなった。
次第に経験したことのない感情の種が水泡のようにどこからか湧き上がり、心の襞に触れては破裂していった。それはいま、この瞬間もあった。
たるんだ両足に力を入れて、彼はゆっくりと布団から立ち上がった。運動不足のせいで血の巡りが悪いのか、少しだけ立ち眩みがした。
よろけかけて、思わず本棚にしがみついた。
古井戸が小さく震えた。
何冊かの本がばさばさと音を立て、暗い暗い足元に落ちる。
緊張感にのぼせ上りそうになる。
今年で四十五歳。なにもない四十五歳だ。
妄想の世界で常に被害者として振る舞い続けた三十年。自己弁護と自己憐憫の語彙力だけは途方もなく増えた。いま、それらを全て捨てる時がきたのだ。
足元に散らばる本たちを避けながら、廊下へと通じる木製の引き戸に近づく。
様子を伺うように手をかけて、力を込める。
半分ほど開けたところで、大きく深呼吸を繰り返す。
ぺらぺらの心を振り絞り、なけなしの勇気を胸に灯す。
五分以上も時間をかけた末に、彼は住み慣れた古井戸じみた部屋から、三十年ぶりに外界へ顔を出した。
「……ぉ……か……ぁ…………さ……」
乾燥しきった喉に痰が絡んで、上手く声が出せない。
吐息が白く濁る。時季は夏のはずなのに、やけに寒い。
ふと、足元へ視線を下ろす。廊下に置かれたお盆の上に、食べカスがへばりついた空の食器が寂しく残されていた。いつもなら眠っている間に母が片付けるはずだが、なぜかそのままにしてある。
疑問に感じつつも、彼は一歩一歩、一階へと続く階段をゆっくりと下りていく。やっと人生が始まる。そんな予感と共に。
三十年ぶりに目にするリビングには、誰もいなかった。電気も点いていない。思った以上に質素な空間だった。
彼は、ベランダの窓越しに庭先へと視線を向けて、怪訝そうに眉根を寄せた。二台あるはずの自家用車が、一台も無かったからだ。一台は、父が仕事で使っているはずだ。すると、母は残りの一台で買い物にでも出かけたのだろうか。
手持無沙汰になったところで、彼は、おもむろにテレビのリモコンを手に取った。
電源ボタンを押す。
しばらくの間があってから、48インチの液晶テレビにパッと光が灯った。
生放送中のニュース番組が映し出された。
四十歳前後の男性アナウンサーが、神妙な面構えでこちらを見つめている。
「……ぁ…………?」
アナウンサーの姓名が画面下に字幕表示された瞬間、彼の心臓が高鳴った。
そのままテレビにくぎ付けになった。
三十年ぶりに見る画面の中の弟は、引きこもりの兄が番組を見ているとも知らず、重々しく口を開いた。
「当番組をご覧の皆様、いよいよお別れの時が近づいてまいりました。直径300キロを超す巨大隕石【ザムザ】は、その不条理極まる軌道を一切変えることなく、時速7万2千キロという速度を維持したまま、東京都へ接近中です。世界気象機関が繰り返し発表していますように、地表への巨大隕石衝突の推定時刻は、本日の午後5時30分頃と予想されています……さて、当番組を代表して、私から皆様にお願い事がございます。人類最後の日を……視聴者の皆様にとって大事な人……家族やペットや友人、恋人と片時も離れず、静かにお過ごしなさってください。まだ、人生は取り返せます……それでは、さようなら……さようなら……」
弟は下唇を噛み締め、必死に涙をこらえている様子だった。
彼は反射的にリモコンを放り出していた。
空が、深いところで轟々と啼いている。そんな予感がした。
「……あ、ダメだ、これ」
彼は際立った声を出すと、急ぎ台所へ駆け込んだ。
そうして手にした包丁を、首筋に当てた。
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本作で主人公が読んだ小説というのは、言わずもがなフランツ・カフカの「変身」な訳ですが、彼の本棚に伊藤潤二の「億万ぼっち」があったら結末はまた違ったものになっていたかもしれません。
それはそうとタイトルですが、いくつか候補がありました。
「深海へのメッセージ」「浸透圧」「世界恐慌浸透圧」「セイアの怪」……etc
“井蛙”繋がりで「星闘死セイア」なんてタイトルも浮かびましたが、別に主人公少年じゃないし、ペガサスのようにならないし、羽ばたきもしないのでボツにしました。