04 投身
「……ずいぶん時間が経ったな」
「このままじゃあ、あの娘………………」
「いや、待て、健太郎!? あの娘、柵に手をかけたぞ!? 考え直したんじゃないのか!?」
「ほ、本当だ! 少しずつ片瀬さんの方に近づいていってるぞ!!」
「ふぅ……よかった、考え直してくれたようだな」
「よかったぁ、飛び降り自殺なんて見ちゃったらトラウマものだぜ」
「健太郎……、不謹慎だぞ」
「ははは、悪い悪い!」
明らかに態度の変わった女の子を見て俺たちは、ホッと胸をなでおろす。それと同時に全校の空気も一気に弛緩し、安堵の色に包まれる――。片瀬桜子の後方に控える野次馬や教員達もその空気を察してか、急激に緊張感から開放されるのが遠巻きにも見て取れた。しかし、その気の緩みが惨憺たる最悪のシナリオを決定付ける。あろう事か、その空気を察した体育教師が片瀬桜子の後方から突如走り出し、飛び降りようとしていた女子の隙を見計らい、強引に捕獲しようと飛び出したのだ――。
「――!? あのバカ教師!! なに考えてんだ!! これじゃ、片瀬桜子の必死の説得が……」
想像力の欠如した人間というのはなんと惨めなのだろうか。自分の行いがもたらす、たった一手先すらも読むことが出来ない想像力に乏しい人間は本当に周囲も何も見えていないのだ。
その類の人間は当たり前のように、社会問題や国際情勢も鑑みず、反社会的な行動を犯罪の認識や罪悪感もないまま、蛮行に及ぶ……その結果、どういう事態に陥るのか……今日というこの日、俺は初めてその愚行の果てにあるものを目の当たりにする――――――。
「飛び降りたぞッ!!」
明らかに事理弁識能力に欠け思考停止状態であり、且つ精神的に不安定だった自殺志願者のその女の子は、突如走り出した体育教師に驚き、予てより決めていた行動を反射的に遂行する………………そして、想像していた以上の大きな音が辺り一面に響き渡る。
半ば鬱状態の空虚な精神状態の者は、ほんの些細なきっかけで自らの命をいとも簡単に放棄する。おそらく、飛び降りると決意していた彼女にとっても、この体育教師の愚行はトリガーとしての役割を十分に果たすものだったのだろう――――――。
「………………………………………………マジかよ」
暫しの沈黙の後、学園全体に阿鼻叫喚の悲鳴が木霊する。顔を覆って硬直する者もあれば、その場にへたり込み、呆然としている者もいる。そして、多くの者は動揺の色を隠せず、思い思いに叫び、狼狽し、冷静さを失っていた――。
「ゆ、優斗………………」
「落ち着け、健太郎……」
「い、いや……で、でもよぅ………………」
「いいから冷静になれ、とりあえず事態が沈静化するまでジタバタするな。じきに先生からの指示もあるだろうし、警察、もしくは消防もすぐに来る……別に俺たちは何も悪くはないんだ……あんまり深く考え込むな……、いいから落ち着け………………」
「お、おう………………」
そういって俺は健太郎を諭す……自分自身にも同じ言葉を胸のうちで繰り返しながら――。
「――ん? 片瀬桜子……何をやっているんだ?」
こんな事態だというのに片瀬桜子は、あの奇妙な水晶玉を目頭に押し当て、懸命に水晶玉の中を覗き込んでいるのが見えた。
「人がひとり死んだんだぞ、それなのに一体何なんだ……片瀬桜子、おかしなヤツだ――」
そういう俺も他人の事をいえた身分ではない。人がひとり死んだ……、この厳然たる事実に対して慟哭するどころか、涙の一粒も出ない。単純に面識のない女の子だから感情移入できないとか、そういう事ではなく、人の死というものに対してなんとなく実感がわかないのだ――。
目の前で人が死んだ……紛う事無く完全に人がひとり死んだ……。それにもかかわらず俺が感じた事は『うわぁ……、人間の血って思っていたよりも大量に出るんだなぁ』とか『すげぇ、肉体なんて結構柔らかいモノなのに飛び降りるとあんなにでかい音が響くんだなぁ……』とか『げっ……、脳漿ぶちまけてるわ、肉片って意外と飛び散るんだなぁ』とか、はっきり言って不謹慎極まりない、そんな程度の事だった。
冷酷な人間だと思われるかもしれないが、飛び降りた少女への興味よりも俺は、片瀬桜子の奇怪な行動と、あの不思議な水晶玉の方に強く魅かれていた――――――。
「――おい! 今日は授業中止だ! みんな速やかに帰宅しなさい!!」
慌しく、バタバタと足音が聞こえてきたと思ったら案の定、先生方からの帰宅の支持だった。当然といえば当然だが、たったそれだけを言い残し、再び先生方はバタバタと走り出し校内を駆けずり回る。きっと教師連中も皆、ほとんどパニック状態だろう。生徒ひとりひとりに対し、ココロのケアをしていられるハズもない――。
「優斗……帰ろうぜ………………」
「………………………………………………」
「……? 優斗……? 大丈夫か?」
「――ん? あぁ、大丈夫、だいじょうぶ、問題ねぇよ……帰るか………………」
なにか腑に落ちない感情を抱きながらも俺は帰り支度を始める。そして、そのまま昇降口を降り、下駄箱で靴を履き替え、表門を避けて駅から近い裏門を抜けて帰路につく。少し歩いたあたりで後方からけたたましくサイレンが聞こえてきたが、自然すぎる流れ故に、何の疑問も感じない。今は只々、黙って歩いているだけだった――――――――――――。