何気ない日常
体育はバドミントンだった。幸い今日はシングルスの日で、教室の席が前後で仲良くなった綱島と組み、ネット越しにシャトルを打ち合った。
16歳の有り余る体力を消費するのは、なかなか充実した。おかげで、今朝のゴタゴタで混乱していた頭も少しはスッキリしたらしく、授業を終えて教室へ帰る足取りも面持ちも、午前中とはまるで違う自覚があった。
昼食になると、はるかは決まって俺の方へ来て、一緒に弁当を食べる。本当は1人で食べるのが性分だが、週2くらいではるかが作ってくれるので、食事に関しては何も言えない。すごく感謝してる。
「寝過ごしたのは、佳助が爆寝してたのが原因でしょ!? あたしは更衣室に行かなきゃだったんだから、しょうがないでしょ!」
1限が終わって移動教室があるにも関わらず、誰も俺を起こさなかった話になると、はるかは箸を掴んだ手で指差してきた。何も言い返せず、俺は教室を眺めた。ふと、綱島と目が合うと、からかうような笑みを浮かべた。
はるかは最初、自分の席の椅子を持ってきていたが、最近は綱島がいない間に席を奪って、俺の前を陣取るようになっていた。
元々、同じサッカー部で別の机の周りに集まっていたから問題はないが、そうまでして俺とごはんを食べるはるかは、きっと目立っていた。
「それに……なんか、うなされてたみたいだし…………」
はるかは言いにくそうに、爽華先生と同じことを打ち明けた。
話を聞くと、俺はクラスメートがざわつくくらいうなされていたらしく、たまたま居合わせた爽華先生が対応を請け負ったようだ。
なんだろう。悪夢にうなされたり、バドミントンで解放感を覚えたり、自分が思ってるより俺はショックを受けているのかもしれない。
「はるか…………」
俺は世話を焼いてくれる幼なじみに言いかけた言葉を、グッと呑み込んだ。もう15年以上の付き合いになる。今さら口にするのは、やっぱり照れくさい。
チャイムが鳴り、始まった午後の授業は退屈だった。古文は興味ないし、化学は頭が痛くなる。寝なかっただけ立派だろう。また悪夢を見るのが嫌だっただけだが――。
唯一、世界史は今朝の出来事もあって珍しく真剣に受けたけど、やっぱりヴァルス王国なんて国は存在しなかった。
「――次回までにヨーロッパの国名と首都を暗記してくるように。試験に出すぞ」
チャイムが響いた直後に教師が発した言葉は、ほとんどの生徒の耳に届かなかったみたいだ。みんな5分ほど前から帰り支度を始めていたし、チャイムと同時にガタガタと席を立っていた。
俺は、いつものように、教師が板書を消し始めるのを待って、明日使わない教科書やノートをロッカーに、2限で着た体操服の入った袋を鞄に入れる。
爽華先生がHRをしに、教室へ帰ってきた。いくつか連絡事項が手早く伝えられ、日直の機械的かつやや早口な号令を合図に、生徒が廊下へと流れ込んだ。
「佳助、今日は?」
はるかが訊いてきた。全てがいつも通りだ。――あの一件を除けば。
「らっぱ寿司」
俺は、シフトに入っているバイト先を答えた。
「隣町の? じゃあ、今日遅いんだ」
俺は頷くのに、不自然な間を作ってしまった。今朝、舞依から同じ質問をされたのが、遠い昔のことのような気がした。
「なら、またあたし寄るから、舞依ちゃんのことは任せて」
はるかは、俺がバイトの掛け持ちを始めてからというもの、帰りが遅いと分かると、夜に舞依の面倒を見てくれる。
合鍵は、そのために作ってくれたのだ。
「ごめん」
礼は言えないのに、それだけは毎回言えた。
「しつこいっ。毎回言われるのもだるいんだからね」
口調は刺々しいが、はるかの優しさが沁みるように伝わった。胸がほのかに熱くなるのを誤魔化すように教室を出ると、はるかも着いてくる。
俺たちは帰路に着く。はるかも帰宅部で、入学当初はBC(放送)部に仮入部していたが、程なく辞めたようだ。
理由を訊いたら、『自作のポエムを朗読できるのが上級生だけだったから』らしい。けど、昼の放送では普通に新入生が、自己紹介と共に聞いていると少し耳が痛い内容の文章を読んだりしているから、真相は謎だ。
「じゃあ、俺はこっちだから」
しばらく歩くと、俺はT字路で家と逆方向を向いた。はるかと一緒に行けば帰れるが、今日はシフトの時間的にバイト先へ直行だ。
「佳助」
幼なじみに呼ばれ、俺は振り返る。傾きつつある夕陽の逆光で表情はよく見えなかった
「……あんまり、舞依ちゃんに寂しい思いさせないであげて」
彼女の真剣な声色に、俺の胸は痛んだ。夕陽を眩しがるフリをして、視線を逸らす。
「分かってる。でも、多少は仕方がない。必要なことなんだ」
はるかへ答えるのと同時に、俺は自分自身にも言い聞かせていた。
できれば、ずっと舞依の傍にいてやりたい。一緒に家事をしたり、ごはんを食べたりしたい。俺の気持ちは、昔も今も決して変わらない。
だけど、舞依もそろそろ兄離れしなきゃいけない時期なんだ。
「10時半には帰れると思う。――頼んだ」
俺は言い残して、バイト先へ向かった。はるかの顔は見れなかったけど、それは夕焼けのせいだけじゃなかった。
俺は走る。何かに追われるように。あるいは、何かを求めるように。
少し荒くなった息を整えながら、バイト先の階段を登り、自動ドアが開いて入店する。
「おはようございまーす」
「うっすー、もう夕方だよ」
早速、大学生の先輩とすれ違いざまに挨拶する。この人は毎回、同じ冗談を言う。毛ほども面白くないし、いつもスルーしてる。
俺はそのまま顔パス同然で店内を歩き、厨房に顔を覗かせた。
中はガチャガチャと食器の立てる音が充満し、たくさんのバイトやパートさん、社員さんが忙しなく動き回っていた。
「おはようございまーす。鍵もらいまーす」
「ぇーい」
近くにいる、なかなかいい歳の先輩が適当に返事する。俺はお椀型のスペースからラッパのキーホルダーがついた鍵を取り、店の外へ出た。
ロッカーは店を出て裏口から入る必要がある。そこで制服に着替える。面倒だけど、衛生管理上の配慮らしい。
俺は慣れた手つきで鍵を開け、ドアノブを捻った。
そこには、鎧を着たたくさんの強面の男たちが、剣を高々と構えて、ずらりと綺麗に整列していた。
俺は、呆気にとられて、持っていた鍵を落としてしまった。鎧の男たちが、一斉に俺を見る。
「まあ!」
長い廊下の先で、女の子の嬉々とした声が聞こえた。たしか――ヴァルス王国のプリンセス、ティアラだ。
「嘘だろ…………」
後ろから、独りでに扉の閉まる重々しい音が聞こえた。