寝不足?
「どこ?」
緋い女が何かを探している。
俺はそれを遠くから見ている。
いつも俺はいないはずなのに。
今回は、いるんだ。
「どこにいるの?」
いつものように、緋い女は誰かを探している。
こんな真っ黒な闇の中。
いるはずのない誰かを。
「触れたいよ」
女の声が震え出した。
「感じたいよ」
膝をつき、項垂れる。
「笑顔を見たいよ」
涙が溢れた。泣いてるんだ。
それほど、探している誰かと会いたいんだ。
俺は、それをただ見ていることしかできない。
そのうち、彼女を可哀想だと思ったんだ。
「誰?」
その瞬間、女が振り返った。
真っ直ぐ俺を見ている。
今までは誰かを探し、暗闇を見つめていた彼女が。
今、たしかに俺と目が合っていた。
「そこね」
肩を起点に、全身へ寒気が広がった。
首元に長い髪が垂れ、生温かい息が耳を撫でる。
唇が触れそうなほど近いのが分かる。
緋い女が、すぐ後ろにいる――。
「みつけた」
――――――――――――――――――――
俺はパッと目を開けた。
「お兄ちゃん…………早く起きないと、キスしちゃうよ〜」
目を閉じて、顔を近づけてくる舞依。
俺は咄嗟に、唇の上に手をかざした。
舞依の唇の感触が、掌に当たる。
「んっ…………」
水っぽい音がして、掌がくすぐったくなり、濡れた。
こいつ舌出してきやがった。
きったな。
「舞依。おはよう」
俺は1音ずつ区切るように言った。
すると、舞依はハッと飛び退き、口元を制服の袖で隠した。
顔はみるみる真っ赤になっていく。
「おはようって…………マイがキスするの分かってて、寝たフリしてたの?」
舞依は拗ねたように言った。
恥ずかしさと怒りが混じっているみたいだ。
やったのは舞依の方なのに、なんて理不尽なんだ……。
「起きたら目の前に妹のキス顔が近づいてくるんだぞ。むしろよく阻止できたもんだ」
我ながら称賛に値する。
寝起きとは思えない反射神経だ。
異世界での戦いで、少しは鍛えられたってことかな。
「あ〜あ……どうりでなんかゴツゴツしてて硬いと思った…………」
舞依は壁にもたれ、残念そうに呟く。
「あんな起こし方あるか?」
「だって、お兄ちゃん全然起きないんだもん。もう家出る時間だよ?」
なに? 俺は慌てて目覚まし時計を取った。
こんな時間になるまで、1回も起きなかったのか……。
俺はしまったと顔をしかめた。寝坊なんて久しぶりだ。
「…………顔洗ってくる」
遅刻は確定だ。なら、せめて頭を冷やさなくちゃな。
俺は少し俯きがちに部屋を出た。舞依と顔を合わせないためだ。
洗面台に立ち、蛇口を捻って手についた舞依の唾液を流す。
「――お兄ちゃん、ごめんね。怒った?」
「怒ってないよ」
あの『緋い女の夢』を見る頻度は、日毎に増している。今ではほぼ毎日だ。
ここのところ寝覚めも悪く、夢のせいもあるだろうが、それ以上に三足のわらじ生活による疲労が表れ始めている感もある。
それが、ついに睡眠の質にも影響が出ているらしかった。俺は『しっかりしろ』と自分に言い聞かせるように、冷水をバシャッと顔にかける。
「お兄ちゃん……大丈夫?」
舞依が洗面所の前で訊いてきた。
俺は濡れた顔で舞依を見た。
「大丈夫だよ。どうした、急に」
心配そうな表情を浮かべる舞依に、俺は穏やかな口調を心がけて答える。
気まずい沈黙が流れ、俺はタオルで顔を拭いた。
やがて、舞依は言いにくそうに口を開いた。
「だって……お兄ちゃん、最近うなされてるみたいだから」
俺は目を丸くした。
「うなされてる? 俺が?」
「うん……夜中とかウンウン呻いてるし、今朝も寝汗びっしょりで、『来るな』とか『やめろ』とか言ってたよ」
そうだったのか……自覚は全くなかった。
俺が寝ている間、そんなことになっているなんて――。
駄目だな、俺。舞依に心配までかけて。
「舞依…………ごめんな」
俺は、舞依の頭をポンと撫でた。
「俺は大丈夫だから。それより、舞依はそろそろ学校へ行った方がいい。遅刻しちゃうだろ?」
「ううん、今からじゃ遅刻確定だし、せっかくだからお兄ちゃんと一緒に行く。マイ、今日はそうしたい気分なの」
舞依が、頭上に置かれた俺の手を握って、上目遣いで見つめてきた。
目が少し潤んでる……自分でも疲れてると認めざるを得ない、俺のこんな姿を見てたら、不安になるのも無理はない。
予想していたよりも、この日常と異世界との両立生活は、難しいのかもしれないな。
「……わかった。けどいいのか?」
こういう時の舞依は、てこでも動かない。
観念して、俺が折れることにした。
それに……俺も舞依のあの目には弱い。
「うんっ。涼子には遅刻するから、先に行っててって連絡してあるし」
「おっけ。10分で支度する」
俺は歯を磨いたり、制服に着替えるなど身支度を手早く済ませた。
舞依はその間、リビングの椅子に腰かけて待っていた。
「お待たせ。じゃあ行こうか」
「うんっ」
舞依がピョンと跳ねるように立ち上がり、俺たちは玄関へ向かった。
ローファーを履くと、舞依は率先して扉を開けてくれた。
「わっ」
直後、舞依は短い悲鳴をあげて固まった。
「どうした?」
どうやら玄関先の何かを見て驚いたようだ。
俺もちょうどローファーを履き終え、立ち上がりながら舞依の肩越しに玄関口を見る。
そこには、舞依と同じ制服の少女が立っていた。
「涼子!?」
涼子――舞依の友達だ。両手でカバンの取っ手を握り、両足を揃えている。
まるで、俺たちを待っていたかのように……。
「おはよう、舞依。……お兄さん、おはようございます」
涼子は律儀にぺこりと頭を下げる。
俺と舞依は、呆気にとられて数瞬、何も言えなかった。
「え、どっ、どうして……先に行っててよかったのに」
舞依が気遣うように言った。
俺が起きた時点で、舞依は既に始業に間に合わないのが確定していた。それを見越して、涼子に連絡を寄越したのだろうが……。
その涼子は、現に俺たちの目の前にいた。
「舞依が遅刻するなら、私も遅刻する」
涼子は淡々と言った。
彼女の性格からして、冗談とかではなさそうだ。
俺から舞依の顔は見えないが、きっと言われて困惑してるんだろうなと分かった。
「あ、ありがとう涼子。でも、そしたら出席足りなくなっちゃうよ……」
嬉しさ半分、恥ずかしさ半分といった調子で、舞依は返した。
「涼子、もしかしてずっと待ってたのか?」
俺がもしやと思って訊ねると、涼子はこくりと頷いた。
「はい。あと12秒で話し声も物音も聞こえなかったら、中へ入ろうと思ってました」
なんだかとんでもないことを、この子はしれっと言う。
どうやって入るつもりだったのか聞きたいところだけど、なぜだろう……涼子からは、それをさせない圧のようなものを感じた。
「今日は、はるかさんはいないんですか? こないだの遅刻の時は来てたみたいですけど……」
涼子が訊ねる。
「ああ。体育祭が近いから、その準備で早めに登校した。あいつ応援団だから」
答えながら、俺は涼子の言う『こないだ』のことを思い出していた。
前回、俺が遅刻してはるかが家まで来た時……涼子が、初めてはるかと出会った時。
――俺が最初に異世界へ行って、ティアラと出会った時だ。
あれが、全ての始まりだった。
「そうだったんですね……」
感慨に耽る前に、涼子の声が聞こえた。
今はそんなことより、早く学校へ行かなければ。
――けど、俺のせいで舞依や涼子まで遅刻してしまうんだよな。
「中学まで送るよ。2人とも、今日は俺のせいで……ごめんね」
俺は涼子と舞依に頭を下げた。
「いいんですよ。こうやって舞依とお兄さんと3人で登校できて、嬉しいです」
涼子は微笑んで、てくてく歩き出した。
「涼子、最近なんか感じ変わったなー」
その後ろ姿を見ながら、舞依が呟く。
「そうなのか?」
「うん。わかんない? 異世界のこと知ってから、なんていうか……今どういう気持ちとか、結構言うようになったよ」
言われてみればそうかもしれない。
あの異世界は、俺の環境だけを変えたわけじゃないのかもな。
「涼子、前よりもっとかわいくなってる」
嬉しそうに、舞依は涼子の後を追った。




