担任・爽華先生
舞依と、その友達の涼子ちゃんを中学へ送り届けた俺とはるかは、息を切らしながら高校の階段を昇っていた。
俺たちのクラス担任の爽華先生は、現代文の担当でもある。思慮深くて明るい爽華先生はとても親しみやすく、生徒から慕われるのも当然と感じられる人だ。
はるかも例外でなく、むしろクラスはおろか学年で一二を争うほど、爽華先生に懐いているかもしれない。だから、先生の現文を欠席するなんて、はるかには言語道断なのだ。
「フッ……フゥ……」
「はぁ、はぁ、はぁ…………あっ、うぅ…………」
よりによって、俺たちのクラスは3階建て校舎の最上階にある。上履きを地面に叩きつけながら階段を昇り、パチンペチンと破裂するような音が廊下に響き渡った。
2階と3階の間にある踊り場で、はるかはフラフラよろめきながら階上を見上げた。舞依の通う中学からここまで、駅前の雑踏やバス停脇の坂道を経て、大体20分くらいの道のりだが、さすがにフルで全力疾走すると、疲れる。
お互い話す余裕もないのは分かっているので、荒い吐息で『もう少しだから頑張ろう』と意思疎通をとる。膝を笑わせながら、そこそこ長い廊下を今にも倒れそうな足取りで進み、角を折れてすぐの教室へ雪崩れ込む。
「先生ぇ! 遅刻して……っ、ごめんなさいっ……!」
「…………遅れました」
俺は、まるで嫌われるのを恐れているかのような、はるかの謝罪に合わせて言った。
ちょうど黒板に板書を書いていた爽華先生が、腰辺りまで伸びた淡い金色のストレートをなびかせ、振り返った。
クリッと丸い目が、俺たち2人を見た。吊り上がった目尻は一見すると鋭いが、浮かび上がった笑窪から、少なくとも怒ってはいないことが分かった。
「わっ、すごい汗! 走ってきたの?」
先生の平べったい唇が、ポカンと開いた。遅刻を叱るより、慌ただしく登校したらしい生徒を気にかけるところが、先生の人の良さを表していた。
「とにかく席に座って、お水飲みなさい。ゆっくりね。気分が悪いなら、遠慮なく言って、保健室行ってらっしゃい」
こんなきつい思いしてまで1限に間に合わせたのに、その足で帰らされてたまるか。
俺は下手くそな作り笑いを浮かべて応えた。隣ではるかが『は〜い』と返事しながら、トボトボ自分の席へ向かう。俺も、それに着いていく。
俺は元々、2限から出るつもりだったのに、はるかに付き合わされた――まあ、舞依を送るのに付き合ってもらったから、おあいこか。思いながら、俺は隣の席の幼なじみを横目に見た。
「じゃあ、続きからね――」
爽華先生の、授業再開を告げる声が聞こえた。水筒のお茶を半分くらいまで一気に飲み干し、酸欠でガンガン痛む頭を、机の上で組んだ腕の中に突っ伏した。
爽華先生は、授業を妨害しなければ生徒が寝ようが内職しようがある程度は放任する主義で、おかげで1限は丸々、終業のチャイムにも気づかず微睡みの中を漂っていられた。
気がつくと、俺は3人の盗賊に囲まれていた。後ろには、綺麗なドレスを着たお姫様が助けを求めてる。俺は日本刀を鞘から抜いて盗賊に斬りかかったが、それは竹刀に過ぎず、諸共に体中を短剣で斬り刻まれてしまう。
「新原さん」
爽華先生の声で、ふと目を開ける。頭は最初ぼーっとしたが、カメラのピントが合うように、すぐ視界は鮮明になった。
朝から色々あった疲れからか、俺はいつの間にか眠ってしまっていたようだ。
顔を上げて教室を見回したが、俺と先生以外、誰もいない。
「うなされてたよ。大丈夫? やっぱり、体調悪いの?」
ごく心配そうな声色で訊きながら、爽華先生は俺の顔を覗き込む。左手を俺の前髪の下へ潜り込ませ、額に掌を当てた。
温かくて、肩がビクッと震えた。先生は少し微笑みを浮かべながら、右手を自分の額にやる。
爽華先生の顔が間近にあった。先生の人気の理由は、その綺麗な輪郭と整った顔立ちにもあった。先生の手の温かさが、段々と気にならなくなってきた。
「んー、ちょっと熱っぽいかな? 保健室行く?」
先生は俺の二の腕の辺りに手を置いた。本当に俺のことを案じてくれているのが伝わった。
「大丈夫です。ちょっと夜ふかししただけなので」
高校に入り、バイトを始めてから覚えた新しい口実だった。大抵こう言っておけば、教師は家の事情を含め察してくれる。それに、丸っきり嘘というわけでもないところが、我ながら巧みで気に入ってる。
異世界――今のは夢だとハッキリ分かるが、今朝の体験は未だに現実なのか幻だったのか、判別がつかない。……少なくとも、今見た悪夢よりは段違いにリアルだった。
舞依やはるかたちのおかげで、せっかく忘れかけていたのに、嫌な思い出し方をした。
「程々にね。体壊しちゃったら、元も子もないもの」
爽華先生は、うるさいことは言わなかった。今まで、何かにつけて『いつでも相談に乗る』と念を押す過干渉な教師か、もしくは家庭環境を一方的に哀れんで平等と差別を履き違えたような教師しか見てこなかったが、爽華先生は一番マシな先生だ。
遅刻しても居眠りしても怒りはせず、ただ生活習慣や健康管理に気をつけるよう、忠告する程度で済ませてくれる。本当にしんどい時だけ、見抜いているかのように声をかけてくれ、色々と助け舟を出してくれる。
はるかが懐くのも分かる、本当にいい先生だ。
「ありがとうございます。他のみんなは?」
俺は話題を変えたくて、率直な疑問を投げかけた。空っぽの教室は、どことなく寂しい。
「移動教室。2限、体育だから」
俺は呻きながら天井を仰いだ。部活もやってない俺には貴重な運動時間が、眠っている間に取り零されてしまった。
黒板の真上に掛かった時計を見て、俺は立ち上がる。今から準備すれば、残り半分は出られるはずだ。鞄から体操服の入った大きめの巾着袋を取り出し、制服の上着を脱ぐ。
すると、爽華先生は突如、慌て出した。
「えっ、ちょ、いきなり!? そんな、教室でなんて、新原くん……それに、先生と生徒なんだから、そういうのはちょっと良くないっていうか……いくら歳が近いって言っても、先生もうさんじゅ――とにかく、こういうのはちゃんとしないといけないと思うの!」
ガタンと椅子や机に体をぶつけながら、爽華先生は拒絶するように両手を☓印に交差させる。
先生は普段、生徒は男女関係なく『さん』付けで呼ぶが、初めて『くん』付けで呼ばれた。よほど動揺しているのは明白だった。
俺は、訳の分からないことを言う担任を、固まって見ていた。
「いや、着替えるんですけど。体育出るので」
爽華先生は『あぁ……』と納得したように呟くと、恥ずかしそうに顔を真っ赤にして、逃げるように教室を飛び出した。