暴走
爪の様な細い月が、静寂に満ちるアトゥの地を、同じく静かに照らしている。
「…くす…」
微かに腫れの残る瞼を擦りながら、ティーミスはゆっくりと立ち上がる。
結局、日が沈むまで立ち直れなかった。
「…我ながら…情け無いですね…」
このままでは野晒しのままなので、ティーミスは一旦家に帰る事にする。
妙に身体が軽い。やけに心が楽だ。
たまには思いっきり泣くのも良い物だ。
幸い、人目につく心配は一切無い。
(…結局、あのお爺さんは何だったのでしょう…)
ティーミスの能力の秘密を知りたいと言うのは分かるが、だからと言って普通、命を賭けてまで本人に聞くだろうか。
あの老人が本当に知識に貪欲なだけの狂人なのか、はたまた途方も無い程の思考と計画の末の行いだったのか。
いずれにしても、会話が成立すると言うのは実に良いものだ。
彼には少し悪い事をした。
ティーミスは、そんなぼんやりとした後ろめたさを味わう。
何か、気を紛らわす方法は無いだろうか。
「…そうだ。あの仮面。」
ティーミスはアイテムボックスから、かつてテラベルトの身に付けていた骨製の仮面を取り出す。
一見鹿の頭骨の様に見えるそれだが、よく見れば僅かに接合部などが確認出来る。
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未抽出の遺物が確認されました。
トークンの抽出を行いますか?(成功率72%)
《はい》《いいえ》
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「…やってみます。」
成功率72%。
失敗した場合、何が起こるのだろうか。
ティーミスの持っていた仮面が一人でに震え出し、ティーミスの手の中で少しづつ砕けて行く。
砕けた粉末は不自然な渦風によって巻き上げられ、ティーミスの目の前で茶色い砂塵渦を作る。
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失敗
20HPを支払う事で再施工が出来ます。
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ティーミスは親指の皮を噛み切る。
数滴分の血液が、赤い小さな渦風となって、目の前で渦巻く茶色の渦の中へと混じって行く。
砂漠の砂の色をしていた渦は途端に赤黒色に変わり、中心で収束して行く。
砂塵の粒がパズルの様に組み合わさり、一つの物体を形成して行く。
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【騎乗用ナンディン】
空陸両用の高速移動モンスターです。
アイテム、【ナンディンの仮面】としてアイテムボックスに収納する事が出来ます。
『これがあれば、足が無くても移動できるよ。』
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大きな二本の黒い角。鹿の様な顔。龍か蛇の様に細長い身体。
その見た目は生物と言うよりは、想像上の動物を模した黒金属製のオブシェの様だ。
“クゥゥゥエエエエエエエエ!”
光沢のある漆黒の金属装甲の合間から、時々赤い光が漏れ出る。
もうすっかり、赤と黒がティーミスのイメージカラーになっているらしい。
「…はぁ…」
名前の響きからティーミスは、可愛らしい動物が出てくるのでは無いかと期待していた。
元はティーミスの為の能力では無い。
物事は、そう都合良くは行かない。
「よろしくお願いします。ナンディンさん。」
“………”
「…無視しないで下さいよ。寂しいですよ。」
ティーミスは、その奇獣のサドルの上に跨ってみる。
ナンディンの首の後ろに二つの黒色の取手があり、ティーミスがそこを引っ張りと、それは二本の手綱になる。
“キョエエエエエエエエエ!”
突如、ナンディンは咆哮を上げ、前方への前進、否、突進を始める。
「うわああああ!?」
突然の出来事でパニックを起こすティーミスは、咄嗟に手綱を引っ張る。
不意にナンディンの頭が持ち上がり、夜空へと一直線に上昇する。
時速はおよそ130kmだったが、何かの力が働きティーミスには風の抵抗は掛からない。
(…死ぬ…死んじゃう!振り落とされたら死んじゃう!)
ナンディンの慣性の力に置いてかれない様に、ティーミスは必死で手綱を握る。
本当に死んでしまうかはさておき、ティーミスの人間としての感覚は危険だと警告している。
「ど…どうやって止め…うわ!」
バランスを崩し、ティーミスは思わず手綱を離してしまう。
その瞬間、ナンディンの上空への突進は止まり、重力と垂直になる様にその身を横向きに変える。
一応は、ナンディンは停止してくれた。
「はぁ…はぁ…止まった…」
あくまでもティーミスがハンドルから手を離した事による緊急停止だ。
当然、正しいブレーキの掛け方では無い。
ティーミスは座席からナンディンの観察を始め、何か運転方法のヒントが無いかと探る。
答えは、案の定手元にあった。
「…あ。」
手綱の持ち手に小さく、アクセルとブレーキと書かれている。
ティーミスは両手でアクセルを握り締めていたらしい。
誰に見られている訳でも無いがティーミスは赤面し、再び手綱を握り直す。
今度は速度が出過ぎない様に、そっと握る。
“クウウゥゥゥエエエエエエエエエ!”
「うわああああ!?」
ナンディンは、再び時速160km飛行を開始する。
雲の無い夜空を駆ける赤い彗星は、見上げる物に底知れぬ不安を与えた。
〜〜〜
何故、法公はティーミスに殺された?
邂逅の始まりは、そんな素朴な疑問符だった。
「これは…」
浮上したのは、法公に関する様々な黒い噂とそれを裏付ける物的証拠に証言。
反教会勢力は今が好機と言わんばかりにテロや抗議活動を繰り返し、象徴を失った教会をみるみるうちに衰退させて行った。
レジスタンスが求めたのは、教会が国の政権を握る現体制の廃止及び鎖国の終了。
彼らの活動は、今までは無駄とも思えた反抗は、天災一つをきっかけに実を結んだ。
ティーミスが咎人などあり得ない。
彼女こそが女神だ。審判と正義の女神だ。
反乱軍の片隅で上がったそんな声が波及して行くのに、そう時間は掛からなかった。
イグリスの繁華街の大通りにて、今日も反乱軍の演説が行われている。
「イグリス啓典の神とは、人を創り、導き、裁き救う者と語られている。…実際はどうだ?その神に最も近しいはずの存在は何をした?
たった一度でも我々を導いた事があったか?たった一度でも、我々を救ったか?」
民衆の中から、少し年季の入った女性の声が響く。
「違うわ、あのお方がそばに居てくださったから、あのお方のお慈悲が、お恵みがあったから、四年前の飢饉からも私達は立ち上がれたのよ!」
「…この際だから、もう包み隠す必要も無いだろう。
あの飢饉の日の教会からの配給。あれは我々の基地から無断で持ち出された帝国からの輸入物だ。」
演説者は、狙いすましたかの様に用意されていた一枚の書類を取り出す。
「疑うのならば見るがいい。これが輸入の際の決裁書だ。
君らが今日こうして生きていられるのは、全て、我々と帝国の親睦の恩恵だと言う事を覚えておけ。」
別に何と言う事は無い。
教会の慈愛だと思っていたあのスープが、パンが、干し肉が、あれほど憎み嫌っていた神の敵である反乱軍の物だったと言うだけだ。
それが、イグリスで生きる信心深い人々にとって、どれだけ衝撃的な事だったか。
教会の定めた禁忌によって生かされた命だったと言う事実が、どれだけ人々の思想に突き刺さったか。
(感謝するぜ。カイワ。)
(へへ、グルズサーニュワイン一本の約束だろ?)
なお、声をあげたこの女性は反乱軍のメンバーだ。
所謂、サクラと言う物だ。
「諸君、今こそ選択の時だ!古き信仰と迷信と共に枯れ果てるか。
我々と共に異国のパンを味わい、子が自分と同じ職業に就かなくても良い世界で、新時代の空を見上げるか。
新時代への切符に必要な物は、金じゃ無い。代償も要らない。
己が意思と、ペン一本だ。
さぁ、我々に力を貸してくれ!共に戦おう!自由の為に!」
教会解体を求める署名は、数日もしないうちに国民の7割分が集まった。
その日、イグリスは真の共和国へと変わった。