かの者
『憎いか?』
薄く水の張った様な地面。どこまでも続く暗紺色の闇。ティーミスの目の前には、金眼のティーミス。
最も適切な表現としては、此処はティーミスの精神世界だ。
「…黙って居てください…」
『…まさか、まだ小娘一人の為に足踏みするつもりか?』
「私だって、ただの小娘ですよ…」
『ふ…違う。お前はただの小娘では無い。お前は偉大な咎人さ。
いや或いは、殺戮と不幸を撒き散らす、恐ろしきレイドモンスターさ。』
金眼のティーミスの姿がノイズの様に振れ、別人のものヘと変化して行く。
『この余には、何もかもが劣るがな。』
金色の眼。
共通点はそれだけだった。
ティーミスが今まで見た事も無い程の上質な生地で形作られ、醜く伸び広げられた衣服。肉の塊を積み上げた様な、ティーミスの5倍はある巨体。油の膜が張った顔は、そのギラギラとした瞳で、ティーミスを舐め回す様に睥睨している。
ルージェ王国最後の国王にて、自らの世界を傲慢によって滅ぼした大罪人。ルージェ・ガーザだ。
ドチャリと音を立て、ルージェはうつ伏せに倒れる。
そのまま、その短い四肢で這い寄る様にティーミスの元まで移動する。
ティーミスは、反射的に逃げ出してしまいそうになる。目の前のそれが、とても同じ生物には見えなかった。
ガーザは四つん這いだったが、その目はなおも、立っているティーミスよりも高い場所にある。
『くぉっほっほっほ!小動物の様に震えおって!くぁあいらしいのぉ!…怖いのか?ティーミスよ。』
「…怖いです。今にも逃げ出してしまいそうな程に。」
ティーミスは、ガーザの元へと一歩近付く。
「せっかく掴んだ平和を、また失いたく無いんです。せっかく出来た友達に、泣いて欲しく無いんです。こんな思いをするのはもう…私だけで…」
『はあああぁぁぁぁぁぁぁ!!??!?!?!!???』
ガーザの感嘆符と疑問符が、生暖かい呼気となってティーミスへと吹き付ける。
「にぇ…!?」
『お前は何ぉ言っているぅ!??
お前はもう、何万人も殺したろぉ!?!!?
何百万人も、不幸にしたろおおぉぉぉぉぉ!!??!』
「で…でも…これ以上は…」
『“でも…これ以上は…“何だ?この先に何があると言うのだ?言ってみたまえ?』
「……」
『…くぅははははははは!!!そうだよ!!!無いんだよ!!!』
ガーザの右手がティーミスの頭を鷲掴みにし、そのまま少しづつ体重を掛け始める。
「ひぅ…!」
ティーミスの膝が痛々しい破裂音をたて、ティーミスはガーザの前に跪く姿勢になる。
『死刑判決の良い所を教えてやろう!それ以上何をしても、重罰化は無えんだよ!
…良いか、人徳ってのはな、社会が味方してくれる娑婆の住人が守る物だ。
お前はどうだ?今から良い子ちゃんで暮らせば、もう絶対に、命の危険は無くなるのか?お前を殺したくて仕方無い奴らが、たがが宗教国家一つを苦にするとでも思うか?』
「でも…キエラが…」
『だったらそのキエラとやらも、貴殿の本質を知る権利くらいあるのでは無いのか?』
「………」
『まあ良い、余も暇では無いのだ。後は貴殿が勝手に決めれば良い。ただ…』
ガーザの瞳が、険しい色を帯びる。
『貴殿が息絶えた時は、地獄で待っておるぞ。…余の高貴なる天賦を無断で行使し続けてくれた対価を、たっぷりと払って貰うからなぁ?くっふっふっふっふ…』
ガーザの体が次第に色と形を失い、ただの水となって地面にパシャリと消えて行く。
「…知る…権利…」
ティーミスは一人、妄想の中で佇み続けている。
ティーミスがガーザの姿を一度も見た事は無かったが、何故だかその容姿を事細かに思い描くことが出来た。
その言葉遣いも、その雰囲気も、態度も、本物と寸分違わぬ姿を思い描く事が出来た。
ただ、それだけだ。
あくまでもこれはティーミスの妄想だ。
ガーザの言葉も、このティーミスの言葉も、ティーミスが持つ対立した意見を記号化した物に過ぎない。
「…ごめんなさい…イグリスの皆さん…」
キエラの寝室の隅で体育座りをして居たティーミスは、徐に立ち上がる。
窓を開け放ち、自らの姿と気配をスキルで隠し、ハーピィの姿になり、空高くへと飛び立つ。
ティーミスは一瞬、このままイグリスから立ち去ってしまおうかと考えたが、直ぐにそんな考えは、ぎこちない翼のはためきと共に振るい落とす。
「本当に此処は…綺麗な国ですね。」
大理石を基調に、優美な金装飾や宝石細工が建材として惜しげも無く使われている街を眺めながら、ティーミスはポツリと呟く。
ティーミスは、自らを受け入れた楽園を、自らの手で破壊する事となる。
〜〜〜
中央礼拝堂にて。
「お父様…?何故…ティーミス様は知らぬのに、アトゥの事を?」
「…聖兵よ、あの子を此処から連れ出せ。多少傷を付けても今回は不問としよう。」
法公の呼びかけに、部屋の壁際に待機していた鎧の騎士が呼応する。
「は!」
法公は相変わらずの無表情を崩さなかったが、キエラには十分理解出来た。
法公は、キエラが今まで見た事の無い程に動揺している。
「お父様!お父様!」
「…《テンションダウン》」
キエラの体に青色のオーラが纏わり付き、キエラはその場でへなへなと崩れ落ちる。
怒りと緊張と、それから正義感による興奮を取り払われた結果、キエラに残ったのは暗い絶望だけだった。
キエラは、今まで慕い続け崇拝し続けた父の、暗く邪な面を目の当たりにした。
思えば、父の出張先での姿をキエラは何も知らない。父がティーミスの故郷へと現れ、何か酷い事をしていたとしても、キエラはそれを知る術も、否定する術も無いのだ。
故にキエラは、父をただただ信じ続けた。国の象徴としてではなく、本当の神の様に慕い続けた。
キエラは、信仰を奪われた。
「行きますよ、主教様。一先ずお部屋へ…」
無気力にされたキエラが、礼拝堂からつまみ出されようとしていた、その時だった。
ガラスの割れる音。柱が破壊されへし折れ倒れる音。大理石の壁と木枠が、瓦礫へと姿を変える前の断末魔。
それら全てが、大量の土埃と共に礼拝堂に押し寄せる。
「な…何が起こって…!」
「神の怒りじゃ!読啓の中断に、神がお怒りを表さったのだ!」
土埃が若干薄まり、背光に照らされたシルエットがその土埃に映し出される。
と言っても現時点では、何か大きな物、以外の情報は読み取れない。
その、“大きな物”に付いている翼がバサリと一つはためき、土埃は一瞬にして吹き飛ばされる。
「…ドラゴンだ!龍が出たぞ!」
若干赤色の散った黒色の鱗。赤い翼膜。鮮血の如く赤い瞳。長い尻尾。そして、何度か枝分かれした、鹿のような大きな角。
その禍々しくも威厳ある容姿は、そのドラゴンがそこらの小物では無い事を示している。
「法公様!今すぐお逃げ…」
聖騎士に囲まれた法公が、出口に向かおうとした時。
その道は、一人の少女によって塞がれていた。
ボタンもチャックも無いがフードの付いた赤黒ストライプ柄の上着を素肌に直接羽織り、首からはロザリオ。胸には細身の黒ベルト。右の耳にはプラスチックの円盤があしらわれたピアス。その靴は、少しかかとの上がる素足履きの編み上げのサンダル。
ただその腰には、本来のホットパンツでは無く、黒色のミニスカートになっていた。元は、ティーミスがイグリスで身に付けていたシスターブレザーだった物だ。
「ダウトルールって、知っていますか。法公さん。」
一方、聖騎士からも手放されたキエラは、ただぼんやりとティーミスと法公の方を眺めているだけだ。
「ティーミス様…お元気になられたのですね…」
これが、黒い長刀を、自らの父の喉笛に突きつける親友の姿を見たキエラの、最初の感想だ。
家柄によって主教と言う役職に就いたキエラだが、姿無き神への信仰心は人並み程度しか無い。
こうなった以上、キエラにはもう、信ずるべき物は無い。
「…“かの者、天翼纏い、邪焼く”…」
キエラはふと、啓典の一節を呟く。