その園
聖イグリス共和国。
数世紀前より事実上の鎖国状態にあるこの国は、ケーリレンデとの繋がりは存在せず、完全なる独立国家であった。
人で賑わうイグリスの街道を、聖騎士の一団が凱旋している。
中心の櫓を守る綺麗な菱形陣形を保ちながら、民衆に向けて蹄の音を轟かせる。
「主教様はどう言うお考えなんだ?大量殺人鬼を自身の櫓に入れるなんて…」
「主教様の事だ。きっと、常人には理解できぬ崇高なお考えがあるのだろう。」
「しかしあの櫓、私ですら入れないのだぞ…」
一方その頃、櫓の中。
「ど…どうですか…」
「似合っていますよ、ティーミスさん!」
ティーミスは今までの少々露出過多の服装から一変し、真新しい修道服を纏っていた。
素性を隠す為にその髪の毛は銀色に染め上げられていたが、そのトパーズアイは、美しいからと言う理由でそのままになっていた。
「既に教会に手配はしてありますし、ケーリレンデの方々はこの国には来られません。なので貴女は、何も心配しなくて良いのですよ。」
「…そうですか。」
ティーミスは、何処か戸惑いを含んだ返答をする。
本当に、自分が救われて良いのか。
本当に、何も心配する事は無いのか。
行軍はそのまま、国の中心に聳え立つ巨大な教会へ、馬すら降りずに入って行く。
石英の外壁。数多の彫像。豪華絢爛な金の装飾。そして、街一つがすっぽりと入るであろうその規模は、此処が俗世で無いと知らしめている様だ。
「お帰りなさいませ、主教様。」
修道女や住職達が、その櫓を視界に入れるや否やすぐさま深々とお辞儀をする。
櫓の布の隙間からその様子を眺めているキエラは、何処かうんざりしている様だ。
しばらくして、櫓が地面に降ろされる。
蹄の音が遠ざかって行き、代わりに近付いて来たのはスリッパの靴音。
「…良いですの、わたくしの部屋に入るまでの間、出来るだけ静かに、堂々としていてくださいね。」
櫓の出入り口がガパリと開かれ、刺した光にティーミスの目は一瞬眩む。
その櫓の前には、キエラを出迎える様に立つ数人の修道女だった。
「お帰りなさいませ。主教様。おや、そちらは…」
「今朝契約を結んだ、召喚獣の方でございます。」
「まぁ、それはおめでとうございます。」
ティーミスを、自身の召喚獣に仕立て上げる。
聖域として指定されている自身の私室で、何の不自然も無くティーミスと暮らす最善の方法だった。
現場に居合わせた聖騎士達は、口約束一つで口止めをしてある。
主教との約束とあらば、死んでも破る者は居ないだろう。
「わたくしの…いえ、わたくしたちのお部屋はこちらですよ。」
その日から、救いを探す日々が始まった。
「起きてください。朝ですよ。」
「はい。」
朝はキエラと共に起床し、朝食もキエラと共に摂る。
最初は魔石だの香草だのを出されたが、3日目にはキエラと同じ、バターを仕込んだパンと野菜のスープが出される様になった。
それが、ティーミスが収容所を出てから初めて食べる人間らしい食物だった。
キエラには毎日禍々しい量の国内公務があったため、朝食の後はティーミスとキエラは一度別れる。
キエラは、イグリス共和国の各地に点在する大教会に出向き祈りや説法を。
ティーミスは他の住職に混じり、このイグリス・カタル大聖堂にて1日の殆どを神へに祈りに費やした。
肩書きが主教の召喚獣ともあって、周囲はティーミスの扱いに少し困っている様子だったが、数日でそれに収まった。
今はティーミスは、主教様の従者や、主教様の連添人と呼ばれている。
イグリスの信仰する神に、明確は名前は無い。
人々はそれを、大いなる者、祖霊、意思、あるいはただ、神と呼称している。
「来週、法公様が遠い西より御帰還なされるそうだ。」
「それはめでたい。では早速、晩餐の手配だ。」
法公とは、このイグリスの中での最高位の神官を指す言葉だ。
法公は原則一人と決まっており、法公が退職した場合は、次の法公は、法公から一つ下の位である主教から選ばれる。
最も、今現在の主教はキエラただ一人だが。
「ただいま戻りました。ティ…召喚獣様。」
「。」
ティーミスは、人前での発声は極力控える様にしていた。
変装で姿は誤魔化せても、魔法を使わなければ声までは変えられない。
万一の事を考えての策だった。
ティーミスの独り言が増えたのは、収容所に入れられてからの事。
孤独を癒され、身の安全も確保され、苦痛から遠ざけられたティーミスが元の性分に戻って行くのは、ごく自然な事だろう。
「そうですね、今日は一緒に教会の中庭に行きましょう。」
それは、ティーミスがイグリスに来て5日目の午後だった。
「。」
ティーミスは元来無口な所があった為、この制約を特段苦とする事も無かった。
イグリスには、安息も、平和も、共に日を過ごす人も場所も。ふかふかのベッドもあった。
ティーミスの求める全ての物が、そこにはあった。
「!」
「ふふ。広いでしょう。」
部屋の真中に一本の木が生えており、壁からは人工的な滝が流れている。
床には芝生が敷き詰められ、そこには一面の花々が咲き乱れている。
天井は遥か高く更に薄青で塗られている為、本物の青空の様だ。
キエラは、部屋の中心に聳えるこじんまりとした木の下まで少し駆け、そのまま室内の野原に腰を下ろす。
キエラの身につけている純白の法衣が、空気によってしばしふわりと膨らみ、やがてしぼみ元通りになっていく。
「ほら、貴女もこちらへ。」
キエラの手招きに誘われて、ティーミスもその木の下へ向かう為に歩いて行き、唐突に足を止める。
これは、本当に現実だろうか。
本当は、ティーミスは聖騎士に破れ死んでしまったのでは無いだろうか。
それとも、ティーミスに宿る大罪人の思念に体を乗っ取られてしまい、ティーミスはただ幻影の中に閉じ込められているだけなのかもしれない。
それとも、これが今の現実なのかもしれない。
「ふぅ…」
ティーミスは、一面の花畑に仰向けに寝転がる。
色とりどりの花弁が付近に舞い散り、雪の様にふわりふわりとティーミスに舞い降りて行く。
例え幻影だろうと、楽園は楽園だ。謳歌した方が得だろう。
「まあ、楽しそう。…それ!」
それを見ていたキエラも、ティーミスに続き花畑の中に飛び込む。
二人は、並んで寝転がり天を仰ぐ状態になる。
「…ねぇ、ティーミス様。ティーミス様は何か、お好きなお花とかはあるのですか?
やっぱり、貴女のお腹に描かれていたユウガオですかね。」
「私の好きな花…マーガレット…ですね。」
「まあ。お綺麗ですものね。小さくて、愛らしくて、貴女みたいですもの。」
「思い出のお花なんです。私と、お母様の。」
ティーミスははっと我に帰る。
キエラには、本当に自然に素性を明かせた。
キエラを理解したいしキエラには自分を理解して貰いたいと、心から思えたのだ。
これが、親友と言う物だろうか。
「まあ。貴女のお母様、どんな方だったのですか?…あ、お辛ければ結構ですよ!」
「…最高のお母様でした。料理も美味しくて、凄く優しくて。
一緒に居るだけで、心がポカポカする様でした。」
ティーミスは不意に、そんな母が恋しくなってしまう。
美しい過去と向き合える程には、ティーミスの心には余裕が生まれていたのだ。
「…素晴らしいお母様だったのですね…」
キエラは、ティーミスの家族が今何処に居るか、大方検討は付いていた。
キエラはティーミスを出来るだけ理解しようと、アトゥに付いての埃を被った文献を読み漁り、その末路を知り、涙を流した。
ティーミスは、人生に必要な物の殆どを奪われた。
ティーミスはただ、命までは奪わせまいと必死に闘っていただけなのだ。
「…少し、お祈りを捧げても良いですか?ティーミス様を愛して下さった、全ての方々へ。」
キエラは胸の前でそっと指を組み合わせ、静かに目を閉じる。
ティーミスが真に救われる事を、真に許される事も願った少女の祈りは、儚く散り落ちる事となる。