幻惑≒現実
所々から、灰に適応する為に黒く染まった雑草が生えている。
空は相変わらず黒く塗りつぶされていたが、灰の間からは星がちらりと、時たま下界を寂しそうに覗き見している。
此処は、セガネとニルヴァネの国境。
シチ平原。
“シュウウウウウ…”
“バサ…バサ…ドォォン…“
小さな船と大きな龍が、平原の真ん中に着陸する。
此処からでは、地平線以外の物は何も見えない。
龍の前に空間の歪みが出現し、そこからティーミスが現れる。
船が内側から切り裂かれ、中からリテが現れる。
「合衆国まではまだ先ですよ?ティーミスさん。」
「ええ。なので着陸しました。」
ティーミスは軽い身のこなしで龍の頭上まで登ると、黒と灰で描かれた地平線の景色を眺める。
相変わらず空気は酷い臭いだし、眼も霞む。
一体どうしてこんな世界に、まだ人が居るのだろうか。
一体誰が、世界をこんなにしてしまったのだろうか。
一体誰が、神のキャンパスを塗りつぶしてしまったのだろうか。
ティーミスはふと、もう記憶の中にしかない過去と言う名の
「…この景色を描いたのは、帝国です。」
「にゃ…!」
何時の間にやら隣に出現していたリテに、ティーミスはほんの少しだけ驚いた。
「…そうなんですか?」
「ええ。あれはもう50年も前の事ですが。」
地上で治安が乱れたのを好機と読んだ魔族が、ある日大量に地下から這い出てきた。
それはもう、地上の種族と取って変わる勢いだった。
その時に魔族に抗う術を持たなかった小国は淘汰され、名のある大国だけが残った。
ある日、人間至上主義を掲げる帝国の皇帝が、魔族に支配されつつある地上を見てこう言った。
全てを焼き払う兵器を作れと。
ある日、兵器は完成した。
それは、城一つ分程の大きさにも及ぶ巨大な爆弾だった。
その名も【淘汰の星】。
専用の障壁が無ければ消して防げず、爆ぜた瞬間より時間を掛けて徐々にその星の生命を殺し、文字通り帝国以外の存在を淘汰する兵器だった。
ある日、淘汰の星は戦場で爆発した。
400キロ圏内の生命と言う生命全てが一瞬で死滅し、死を運ぶ黒き灰となった。
灰の落ちた水は瞬く間に劇薬と化し、灰を吸った生物は死滅していった。
残ったのは滅びの元凶たる帝国と、滅びより生き延びた二つの大国。それと、運に恵まれた僅かな亜人。それから、更に運に恵まれた極少数の人類。
「【淘汰の星】が撒き散らした化学毒は大気を有毒な物に変え、雨を酸に変えました。その雨を吸った土地も瞬く間に汚染され、適合した僅かな種以外は芽吹くことすら許されない死の土地となりました。」
「…」
遠くの方に、人が居る。
否、それは人では無くゾンビだった。
辛うじて人の姿を保っている物が、片腕と胴体だけになった死体を引きずって、よろよろと歩いている。
「…リテさん。少し、私の我儘を聞いてくれませんか?」
「私に出来る事なんてそう多くありません。それでも宜しければ、なんなりと。」
「ありがとうございます。では、たった一つだけ、お願いがあります。…次の襲撃は、私一人でやらせて欲しいです。」
遥かなる地平線を眺めながらティーミスが呟いた“わがまま”に、リテは心の中でため息をついた。
とうとうこの日が来てしまったかと。
「…勿論でございます。ティーミスさん。私は、貴女のお邪魔になるために契約を結んだのでは無いのですから。」
そんなリテの返答を聞いたティーミスは、大慌てでリテの方を向く。
「にゃ…!じゃ、邪魔だなんて、別にそう言う訳じゃありませんよ!」
「分かっていますよ。ティーミスさん。貴女はとてもお優しいお方…」
「本当に違うんですって!私はただ…少し、考える時間が欲しいんです。」
別にリテの事を気遣っている訳でも無く、これがティーミスの本心だった。
ここでリテは漸く、自分の勘違いに気が付く。
「あ、かしこまりました。では私は、此処で船の手入れでもしています。要らぬ心配だと思いますが、どうかお気を付けて。」
「ありがとうございます。リテさん。いってきます。」
ティーミスはそう言うと、龍の頭の上から飛び降りる。
地面にナンディンが出現し、ティーミスはそのままナンディンの上に着地し、そのまま搭乗する。
此処からニルヴァネ合衆国までは凡そ1000里。ナンディンで5分の距離である。
◇◇◇
「これが…合衆国ですか…」
ナンディンに跨ったティーミスが辿り着いたのは、夜空の様な黒紺色をした、巨大なドームの前だった。
ドームを形成している物は、物体と言うよりも霧や靄に近い物だった。
ティーミスは、試しにそのドームに小石を投げてみる。
小石は壁を透過し、中に落ちた。
「…形の無い物を盾にするのが一番。という事でしょうか。」
ティーミスはナンディンを格納し、普通にドームに向けて歩いてみる。
先ずティーミスの肩や頭に積もった灰が飛んで行き、次にティーミスは、主に胸や腹を中心に反発する力を感じ始める。
「…これって…まさか…」
ドームが阻むのは死の灰と、灰に起因する化学毒とゾンビを動かす魔力。
当然、灰を吸い込んでしまってもアウトである。
「…困りましたね…」
これでは街には入れず、考え事どころでは無い。
「…仕方ないですね。」
ティーミスは先ず、虚無より大きな槍を一本取り出す。
次にそれを【怠惰なる支配者の手】によって自身の前まで移動させ、先端を自身の鳩尾に向け、
“ズガシッ!”
「…う”…っく…」
自身の胸を、心臓ごと貫いた。
ティーミスはその状態で、再びドームへと近付いていく。
ティーミスの体内の灰が、ドームの斥力を受け血液と共に吹き出していく。
重傷を負った事でティーミスの血流は加速し、肺や臓物にこべりついた物も洗い流していく。
(…私、今、自分を平気で傷付けてる…)
絵画の中の、絵の具で出来た傷ですら、ティーミスはいつも目を背けていた。
それが今や、常人なら即刻絶命する程の自傷を“仕方ない”と割り切ってこなせる様になっていた。
慣れ、変化、歪み、人はそれに様々な名前をつけるだろうが、せめて少しでも明るく考えようと、ティーミスはそれを成長と呼ぶ事にした。
「…はぁ…はぁ…そう…ですよね…」
胸に大きな穴を開けたティーミスはそのまま、ふらつく足取りでドームの中へと歩いて行った。
この世界を地獄たらしめたのは、淘汰の星、否、それが生み出されるきっかけたる、戦争。
この国が選んだのは、悪夢からドームで隠れる事だった。
ドームの壁の中は暗かった。
まるで、夜空の中を歩いている様だった。
自身の身に斥力を感じなくなったので、ティーミスは壁の中で槍を抜いた。
傷は10秒程で瘡蓋となり、30秒後には跡も残らず完治した。
傷が治ってから10秒後、ティーミスはドームの内側に辿り着いた。
「…!」
青い空。
白い雲。
全てを暖かく照らす太陽。
さえずる鳥。
野原。
野原でかけっこをする子供達。
「そう言えば知ってる?もうすぐまた“世界”が拡張されるんですって。」
「まあ!またですか!今月に入ってからは随分とペースが上がりましたねぇ。」
母親たちの談笑。
陽の光を反射し、煌々と輝くガラス張りのビル達。
そこは、ティーミスの記憶の中の光景が、そのまま時を歩んだ世界、に見える場所だった。
(…此処に、カーディスガンドさんが…でも…)
最初ティーミスは、どうせ壊してしまうのだから隠れる必要など無いと思い、【盗人の礼法】は使わずに此処まできた。
しかし此処にきて、このドームの中の完璧な世界を目の当たりにして、急にそんな考えが失せてしまった。
ティーミスは急に、自分が恥ずかしくなっていった。
この平和を、このままそっとしておきたいとさえ思った。
「ん?あれは何かしら。」
先程まで談笑していた母親の一人が、ティーミスの存在に気付く。
ティーミスはふと背後を振り返ってみる。
するとティーミスは、自分が空中に浮いた“侵入規制”と言う赤い文字にめり込む形で立っていることが分かった。
外があんな地獄ならば当然ではあると、ティーミスは直ぐにそんな思考を弾き出した。
「え…?どうして…“世界の外側”に人が居るの?」