ミセリコルデ
あいも変わらず、ティーミスは拘束状態にあった。
血を失い、肉を失い、骨を失い、ティーミスの命は最早風前の灯だった。
ただ一つ違うことと言えば、ティーミスは、これから訪れる死に対しての一切の恐怖を抱いていない事だろう。
ジッドの話によれば、ティーミスは彼が去った直後に生き絶えるはずだが、奇しくも打ち込まれた薬が輸血としての役割を果たし、数刻程命が延長されたのだ。
その数刻だけで、充分だった。
「…ふうううぅぅぅぅぅ……」
ティーミスの肺の中の空気が全て抜け出る。瞳孔が完全に開ききる。鼓動が止まる。
その死に顔は、目の前にプレゼントを差し出されて胸躍らせる子供の様に、無邪気な笑いを帯びていた。
〜〜〜
「おーい、飯と拷問の時間だ…おお?」
いつも通りに出勤し、いつも通りに乾いたパンを手に持ち、いつも通りの黒装束で顔以外の全身を覆った拷問官。
ただ今日は、いつもとは少し違った出来事が起こった様だ。
(やっとくたばったか。しかし、随分とタフなガキだったなぁ。)
集団で収容する際には、一つの決まり事がある。
収容室内の囚人が全員事切れるまでは、拷問官以外の者は、決して牢を開けてはならないと言う物。
理由は単純、脱走防止の為だ。
“ガシャン!”
音に反応し、部屋の隅から微かな音が聞こえる。
彼は一瞬アンデッドを疑ったが、すぐにその音の正体がネズミだと言うことに気が付き、そっと胸を撫で下ろした。
(ん?このガキ、笑いながら死んだのか。…気でも狂ったのか、はたまた、家族にでも会えたのかなぁ。)
彼は一旦牢から出ると、近くの壁に描かれた小さな魔法陣に掌を当てる。
「あー、あー、俺だ。マークスだ。第七集団収容室が空いた。清掃員と祈祷師をよこしてくれ。
…ああ、ほんとだよ。あのしぶといガキがとうとう死んだんだ。終わったら祝杯でもあげようか。
他の連中にも伝えてくれ、二年連勤ご苦労様ってな。」
マークスは魔法陣から手を離すと、もう一度牢屋の中に入る。
そこらに散らばっている死体のほとんどが腐りきっている、あるいは白骨化しているのに対し、部屋の中心にある少女の物だけは比較的新しい。
「…思えば、お前とも長い付き合いだったな。ロクでもない関係だけどね。」
マークスが拷問官に就任したのは、今から五十年前、彼が17歳の時だ。
殆どの場合は、狂気的な加虐趣味を見込まれた者が指名されるが、マークスは少々特例だった。
彼は帝国騎士学校から、他者を痛めつける才能を見出され、推薦されたのだ。
その拷問は、普通の感情に任せて死ぬまで苦痛を与える物では無く、より長く、より効率的に、時には延命の為の癒しのポーションすらも駆使して、的確に苦痛を付与する。それがマークスのスタイルだった。
ただマークス自身は、ただ才能があるだけの普通の人間。
悶え苦しむ囚人の姿には少なからず心を痛めるし、時には失敗したと言う名目で慈悲を下すことだってある。
実際、ティーミスには二度ほどチャンスを与えたが、どちらもティーミスは耐え抜いてしまい、マークスも参っていたところだった。
「ん?」
付近に、鎧のような物が転がっている。
彼が最後に来た時には、確かにこんな物はなかったはず。
さらに言えば、これは本来立ち入りが禁止されている看守のものだ。
「…またかよ。」
律儀な性格のマークスは、規則や規範を重んじる気質だった。
いざ証拠を目の前にすると、不快感を覚えた。
「…まあ、気持ちは分かるけどさぁ…」
マークスは、安らかとは言えぬ眠りについたティーミスの顔を覗き込んだ。
(死んでも美少女のままなんて、中々居ないぞ。…死んでも…可愛いなぁ…)
少女の亡骸に対して、マークスは奇妙な感情を抱いた。
ひねくれた性癖など持ち合わせて居ないマークスすらも動揺させる何かを、ティーミスは持ち合わせて居る様だ。
「……悪い。」
ティーミスの手枷足枷のビスを外し、身体中にくっついたままの拷問器具を可能な限り取っ払い、血の池の真ん中に横たわらせた。
連絡を入れてから清掃員達が到着するまでは、早くても一時間はかかる。
少しくらいは良いだろう。少しくらいなら…
「《残機奪取》」
突如ティーミスは目を覚ます。
「な!?」
命奪う悪魔の鉤手が、ティーミスのみぞおちの辺りから伸びる。
看守の時よりも半分ほどの時間で、マークスの中にある目当ての物を掴む。マークスを生物たらしめる、命そのものを。
「…ふ…ふはははは!」
突如笑い声をあげるマークス。
これには流石のティーミスも、首をかしげる他無かった。
「ああ…そうだよな…結局最後はこうなるよな!」
「………」
「さあ殺せよ!その腕を俺の中でぐちゃぐちゃに動かして、目一杯苦しめて殺してみろよ!
俺が憎いんだろ!俺を恨んでるだろ!…俺が…悪いんだろ…?」
突如、ティーミスの今までの思考が飛ぶ。
目一杯苦しめてから殺してやろうと思った、二年分の苦悶を倍返しにしてやろうかと思った。
でもティーミスは悟った。
マークスも、苦しんでいたのだ。
「…俺は…ただ立派な騎士になりたかっただけなんだよ…お前くらいの年から…ずっと憧れてた騎士に…
こんな悪魔じゃ無くてさ!」
マークスは騎士の夢を抱き、幼い頃から勉強漬けの日々を過ごした。
夢を追い、狭き門をくぐり、帝国の中で最も由緒正しき騎士学校に入学した。
戦場を駆け、軍旗を掲げ、弱きを守る英雄。ただマークスは、憧れのヒーローになりたかっただけだ。
「……お前、泣いてんのか……?」
「……貴方がとても……かわいそうで……」
赤黒い光を放つ瞳が潤み、血だまりの中に清らかな雫が落ちる。
自らを、多くを苦しめ死に追いやった人物の為に、ティーミスは涙を流した。
「……拷問官さん……」
ティーミスは起き上がり、マークスをそっと抱き寄せた。
「……私は貴方を…許します。」
一瞬のうちに、命を肯定する鉤爪が引き抜かれた。
万人を苦しめ殺した恐怖の拷問官の最後に待っていた物は、たった一つの、少女の許しだった。
「……ああ…………神……様……」
マークスが最期に見たティーミスの瞳は、鳶色の優しい光を讃える、聖女の如き眼差しだった。
周囲の物の反射、光の加減、角度、その全てがピタリと合わさった、マークスだけが見た、もう二度と誰も見られない、奇跡の瞳だった。
ティーミスの腕の中で、マークスは灰に還っていく。
その表情は、消え去るその瞬間まで、穏やかな物だった。
「………」
「お前、強えんだな、」
「……ジッドさんですか。」
ジッドは腕を組み、部屋の隅に寄りかかり立っていた。
「へっへっへ。なあに、どんな事になるかちと気になって来てみただけさ。
調子乗ってぽっくりいってねーかなーって。」
「どう言う事ですか?」
「まあ、開幕から俺tueeeeeさせれんことも無いが、こっちも色々忙しくてな、そんな余裕も無えんだよ。
だから、変わりのもんを贈ろうかとね。」
ジッドの右手には、スキルメイドとはまた別の注射器が弄られていた。
今度はよく磨かれた金属製で、内部の蛍光緑色の容器に、液体が満たされている。世界観にそぐわぬサイバーパンクなデザインをしており、当然これも別世界の物だ。
「また、私の中に入れるのですか。」
「んー、地味ーに誤解を生みそうな表現やめーや。ま、」
プチリと、ティーミスの首筋に注射針が突き刺さり、冷たい液体が流れ込む。
「間違っちゃあ、いねーがな。」
ジッドはその後、先程のスキルメイドの空容器も回収する。
「人間の集団がこっちに向かってきてんな。この速度のままだったら…だいたい20分くれーか?
時間圧縮はさっき使い切っちまったし…とにかく、チュートリアルチャチャっと済ませっぞ。」
「チュートリアル…」
「うっし、まずぁパラメーターからだ。」