フィッシング
ミズキは一人、広い石畳の街道を歩いている。
その足取りはフラフラで、今にも倒れそうである。
「…?」
ミズキはふと、耳先のむず痒さを覚える。
特に何の考えも無しに、ミズキは頭から生えている一対の狐耳に触れる。
「っ痛!」
ミズキは、耳先に火傷を負っていた。
光に弱い妖怪の身で、直射日光に当たりすぎたのだ。
「…はあああ…ああああああ…」
ミズキはその場にへたり込み、鳴き声とも溜め息とも付かない嗚咽を漏らす。
最悪の1日とは今日の様な日を指すのだろうと、ミズキは頭を抱えながらぼんやりと考える。
屋敷に何が起こったかも解らないし、どうすべきかも判らないし、誰かの手助けも到底望めそうに無い。
一層このまま何処かに逃げてやろうか。
心が、ミズキを誘惑する。
ふとミズキは、屋敷で働いている使用人達の事を思い出す。
少なくとも彼等は、ミズキを差別する様な事はしなかった。
(駄目じゃ…職務を放棄する訳にはいかん…街の為では無い…彼奴らの為にじゃ!)
ミズキは、針の様に細く息を吐きながら再び立ち上がる。
既に頰や手の甲と言った、外部に露出している部分も赤く焼け始めていた。
(い…いかん。このままでは痕になってしまう。一先ず屋内に…)
ミズキは周囲を見回して、ようやくある事実に気が付く。
此処が、自身の屋敷の目の前であると言う事に。
「…荷馬車が全て片付けられておる。誰かが運んだのか?」
ミズキは更に辺りを注意深く観察するが、石から現れた少女の姿も、何らかの術中の中にあると思われる二人の使用人の姿も無い。
先程の出来事は、ただの悪趣味な白昼夢だったのでは無いか。
ミズキがそう錯覚する程には、屋敷の前の街道には何も無かった。
日光による火傷の事を思い出したミズキは、一先ず屋敷に帰る事にする。
既に、ミズキの尻尾の先毛は縮れ始めている。
「…ただ今、戻ったぞ…」
ミズキは弱々しく呟きながら、屋敷の門を静かに押し開ける。
廃墟になった室内。血の海。死体の山。
ミズキはそんな、最悪の光景を覚悟していた。
「お、お帰りなさい。大地主様。…っと、そうだ。今まで何処に居たんですか。税は運び込んでおきましたから、早く納税報告書の確認を済ませておいて下さいね。」
門番、とは名ばかりの、出迎え係の娘が、ミズキの帰りをにこやかな笑顔で歓迎する。
屋敷内は相変わらず喧騒に満ちており、異常は何処にも見当たらない。
「む…?あ、ああ…そうじゃな。」
ミズキの抱える疑念は、ますます強くなって行く。
もしや自分は本当に、本能的に男を漁りに街に出ただけなのか。
今さっき見たあの異常な光景は、自身が勝手に考えただけの妄想だったのか。
「あれ、大地主様?今まで何処に居たんすか?」
鳶色の髪の使用人が、ミズキを見かけるや否やそう話を始める。
少なくともミズキの見た限りでは、その使用人は平常そのものだった。
「ふ…少し、散歩に行っておった。たまには日を浴びるのも、悪くは無いと思ってな。」
先程の出来事は、ただの妄想だ。
ミズキはそう確信し、自室のある最上階へと向かって行く。
ミズキの自室には、毛の上からでも塗れる妖怪用の火傷薬がいつも用意してある。
下駄を脱ぎ、古びた木製の階段を軽やかに駆け上がり、ミズキは自室の前に辿り着く。
道中、屋敷の何処にも異常は見当たら無かった。
(何もしていないのに疲れたの…今日は早く寝よか…)
ミズキは自室のドアを開ける。
街を睥睨出来る大窓を背にする様に置かれた、ミズキにとっては少し大きめのデスク。先代が西方の国から取り寄せた赤色の絨毯。デスクの右に置かれているのは、大きな葉が特徴的な、ミズキの三倍ほどの大きさの観葉植物。書類や書籍でで満たされた本棚の列。西洋式のランプ。部屋の隅でうずくまる塊。一度も料理を乗せた事の無い飾り大皿。
ミズキの見慣れた、いつもの自室だった。
「………………!?」
次の瞬間、ミズキの背筋は凍り付く。
部屋の隅に、うずくまる様にしてそれは居た。
その少女は妄想の産物などでは無い。さっき起こった事は全て現実だ。
ミズキの本能が警告する。
「………ん…」
軽く喉を鳴らしながら、体育座りの姿勢でうずくまっていた少女は顔を上げる。
眼球は再生していたが、本来黒目がある筈の場所も白濁しており、何か物を捉える為に動いている様には見えない。
「な…何じゃ…ななな何が目的じゃ…金か?この街か?…わわ…妾か?」
ミズキは問う。
少女は少し顔を上げた体勢のまま、動かない。
ミズキは本能的にその場から逃れようと、出口へ向かって後退を始める。
そしてミズキの背は、トンと、暖かく柔らかい物にぶつかる。
ミズキは恐る恐る顔を上げる。
ミズキのすぐ背後に立つ黒髪の使用人が、ミズキの事を見下ろしている。その目は相変わらず虚ろだった。
ミズキの部屋のドアが外側から開けられ、部屋には鳶色の髪の使用人が入って来る。
「見つけて来ました!」
そう言いながら鳶色の髪の使用人は、少女の目の前まで歩いて行き、担いでいた巨大なロール紙を少女の前に降ろす。
鳶色の髪の使用人が持ってきたのは、この屋敷にある中で最も精巧で高価な、貿易用の地図だった。
「主…い、一体何をしておる…?」
ミズキは、ハイライトの消えた目をした鳶色髪の使用人に問う。
「何って、何がですか?」
使用人は少し不思議そうに答える。
その様子はさながら、当たり前の事を突然問い詰められたかの様だった。
鳶色髪の使用人は少女の前に地図を置くと、そのまま少女に背を向け部屋を後にする。
その一連の動作には微塵の不自然さも無く、何かに操られている様には見えない。
「…っ!」
あまりに異様な状況。
ミズキは全力で夢であれと願うが、視覚情報はこれが現実である事をミズキに示している。
ミズキは下の階の職員にこの事を伝える為、使用人に続き部屋を出て行こうとする。
「待って下さい。」
黒髪の使用人が、ミズキを呼び止める。
「な…何じゃ!」
「リッテ様が。貴女とお話ししたいそうだ。」
黒髪の使用人はそう言って、ティーミスの傍まで移動する。
その目は虚ろだったが、一様にミズキを捉え続けていた。
今ここで逆らう理由も、逆らった先に待つ未来に希望も無かったミズキは、少女との会談に応じる事にした。
「…何じゃ。金が欲しいのか?権力が欲しいのか?妾が、気に喰わないのか?」
少女の白濁した瞳が、ゆっくりとミズキの方を向く。
「一晩だけ、匿って欲しいんです。それだけです。」
「…かくまう?」
「はい。…私が此処に居ると知られれば、死んでしまいます。」
「主が、誰かに命を狙われておるのか?」
「そうです。…そして多分、私以外にも大勢の方が死んでしまいます。私を守る事はこの街の方々を守る事と同義と言う事で、どうかお願いします。図々しい事は承知で、お願いします。」
未だ光の戻らぬティーミスは、声のする闇の中に向けて呟く。
ティーミスには、この先の計画は特に無かった。
一晩と言うのも惰性で決めた期限であって、明日に何が起こると言う訳でも無い。
「…条件がある。」
ミズキはティーミスに返答する。
「二人を元に戻しておくれ。彼奴らはただの召使いじゃ。」
「…すみません。出来ません。いえ、出来はします。貴女次第です。」
「何じゃ。謎かけか?」
「お二方に、“元に戻れ”と命ずる事は出来ますし、お二方はちゃんと隷属前の状態には戻ります。
…しかし、本質的にはお二方は私の隷属のままです。元に戻れと言う命令を遂行しただけの、隷属です。
もしかすれば自我なんて無くて、ただ演じているだけかも知れません。真相は私には解らないんです。
それで良いか悪いかは、貴女の価値観に任せます。」
「………」
ミズキは視線を上げ、ティーミスの傍に立つ黒髪の使用人の方を見る。
身動き一つ取らないその様相は、さながら蝋人形の様だ。
「つまり、元には戻らんと言う事か?」
「元に戻ったかどうかの証明のしようが無いと言うだけです。所謂、哲学ゾンビって言う奴です。」
室内は暫し静寂に包まれる。
ミズキは、自身が哲学の例文の世界の中に、迷い込んだ様な感覚に陥る。
「…分かった。それで良い。」
ミズキは、ティーミスに返答を送る。
答えは出したが、内心ミズキはどちらが正解なのか解らなかった。
「ありがとうございます。」
ティーミスの声のトーンが少しだけ上がる。
ティーミスは立ち上がり、部屋の窓にカーテンを掛ける。
「お二方に命令です。先ずは一階に行って下さい。そして私の事を忘れて、魅了前の状態に戻って下さい。」
「かしこまりました。リッテ様。」
黒髪の使用人はそう言うと、ゆっくりと部屋を後にする。
「…私の名前は、ティーミスって言います。」
これから自身の事を忘れる者に対して、ティーミスは訂正を入れた。
〜〜〜
正午。
ティーミスが最初に流れ着いた漁村。
「見ろ!網が全部満杯だ!」
「見てみろよ!こんな太ったマグロ見るの初めてだぜ!」
「こりゃ五年先は飯にゃ困らんな…」
港町は、開港以来の活気に満ち溢れていた。
一時間で普段の一月分の獲物が捕れ、獲物と共にある筈の海の怪物は何処かへ姿を消し、海模様は繰り出す全ての船を祝福していた。
「アミ、そこに投げてみろ。」
船長は船上から、海面に指を指す。
「え?は…はい。」
アミは手に持っていたトライデントを、指差された場所に向けて放り投げる。
暫しして、トライデントがアミの手元まで戻って来る。
その矛先には、1m程の魚が2匹突き刺さっていた。
「うおお!どうやって分かったんですか?」
アミは高揚した様子で船長に問う。
「何、勘さ。」
アミを乗せた船は、当初の予定の倍以上の時間会場に留まっている。
嵐の予兆が現れても直ぐに退避できる場所で、船長はアミと海のあれこれを教えていた。
否、二人はただ海で遊んでいるだけだった。
「よし、次はあっちに投げてみろ。」
「はい!」
アミは再びトライデントを構える。
その時、突風と共に日が隠れる。
二人は空を見上げる。
無数の龍が、内陸に向けて飛来していた。