航路
見渡す限り一面の大海原が広がっている。
快晴の空の青と海の青の境界線は、美しい直線を描いている。
海の真ん中には古びた小舟が一つ。本来ならば、市街地での川渡りに使用される為の物であろう簡素な造りの、大の大人が丁度一人入れる程度の大きさの船だった。
船の中では少女が一人、静かな寝息をたてながら仰向けで寝ている。
漂流から既に一週間が経過していると言うのに、少女の身には衰弱の傾向すらも見られなかった。
ティーミスは今、特に目的地も定めずに海の旅をしている。
と言うのもティーミスは、この世界の地理に関しては絶望的に知識が足りていない。ティーミスが地理を学ぶ前に、ティーミスに地理を教える人間が皆居なくなってしまったからである。
今のティーミスは、この世界に大陸が何個あるのかさえも知らない。
ナンディンを使った場合、スピードも相まって十中八九迷子になる。
故にティーミスは、漂流して何処かに辿り着くのを待つ事を選んだ。
一度クラーケンに襲われそうになったが、ティーミスには勝てなかった。
人間にとっての危険地帯である海洋は、ティーミスにとっての安息の地の一つだった。
“ゴロゴロゴロ…”
快晴だった空に、唐突に黒雲が掛かり始める。
清々しい程の快晴はものの数分で、荒れ狂う嵐へと姿を変える。
平坦だった海原は怒り狂った大波で埋め尽くされ、そこら中で落雷が起こる。
大波が一つティーミスの小舟を大きく持ち上げる。
船の中に水が入り転覆寸前の所で。ティーミスはやっと目を覚ます。
「…にぇ…」
ティーミスは上体だけを起こし、舌先をちろりと出す。
舌先から、ピアスの様な装飾品がぶら下がる。
ーーーーーーーーーー
現在の天候【嵐】
変更・可
変更可能候補
・【曇り】(コスト無し)
・【快晴】(コスト無し)
・【レッドウィンドウ】(HP20を消費)
・【血雨の賛美歌】(HP140を消費)
・【航海日和】(10秒間防御力ダウン)
ーーーーーーーーーー
ティーミスの指は最初【快晴】に伸びたが、やがて快晴よりも縁起の良さそうな項目を見つける。
ーーーーーーーーーー
【航海日和】
変更しますか?
《はい》《いいえ》
ーーーーーーーーーー
ティーミスは肯定する。
次の瞬間、天候は劇的な変化を始める。
みるみるうちに黒雲は引けていき、再び天は気持ちの良い青空に戻る。荒れ狂う大波も収まり、海原は再び静寂を取り戻す。
そして、海全体に薄明かりの様なエフェクトが掛かる。
ーーーーーーーーーー
【航海日和】
・海流加速
・モンスターの出現率極大低下
・海流と風向きが、可能な限りあなたにとって最も都合の良い配列に切り替わります。
ーーーーーーーーーー
波は依然として穏やかだったが、小舟は目に見えて加速を始める。
「…便利ですね、これ。」
ティーミスは改めて、舌先にくっついているこの装飾品の力を思い知る。
完璧な天候の変更など、100人の大魔術師が集まってやっと成功するか否かの大業である。
文字通り、神の業である。
天候が切り替わってから数時間後。
船の進行方向の水平線が、僅かに歪み始める。
ティーミス以外の誰かの船、そして、陸が見え始めた。
「…《盗人の礼法》。」
ティーミスは身を屈め、姿と気配をこの世界から完全に隠す。
ティーミスを乗せ海洋を渡り切った船は、何処かから漂着物として流れ着いてきたただの小舟へと擬態する。
普段から時々使っているこの《盗人の礼法》もまた、浮世から見れば異常なまでに強力な隠密スキルである。
最強の隠密スキルを使う魔物として有名な【隠匿のカメレオン】と言う者が居る。隠匿のカメレオンもまた自身の姿を完全に消す事が出来るが、自身の立てる音までは隠せなかった。
この世界においての最強から少し上。それが、ティーミスの持つ統一性すらも無い雑多な能力の基本的なスペックである。
(…変わった形の船ですね…)
小舟が海流に乗って進むにつれて、船の詳細な形や陸の様子が少しずつ見えてくる。
船はどれも高度な木造技術で作られており、殆どが漁船か貨物船である。
港町らしき場所には、船とは対照的に実に簡素な建物が立ち並んでいた。
ティーミスが辿り着いたのは、東の大陸だった。
〜〜〜
東の大陸。
名も無き港町。
「アミ!ちょっと向こうから漁網持ってきてくれ!」
「あいよ!」
屈強な男たちに混じり、活発そうな少女が一人働いている。
普通の漁師が着る様な、海の匂いの染み付いた麻布の服。腰には縄を巻いている。黒色のパサついた髪は、後ろで一纏めに縛られている。瞳もまた黒い。
彼女の名前はカツナ・アミ。
この港町で暮らす、ごく普通の村娘である。
(しかし、今日はまた良い天気だねぇ。)
アミは漁網を担ぎながら、有り得ない程完璧な波模様を眺める。
「ん?」
アミは海岸に打ち上げられている小舟を見つける。
船が漂着物として流れ着いて来ることは珍しくなかったが、その小舟は漂流してきた割には随分と小綺麗だった為、アミの目に止まった。
もしやまだ何かに使えるかも知れない。
アミはそんな些細な期待を抱き、網を担いだまま小舟の元まで歩いて行く。
近くでは数名の男達が漁船の掃除を行なっていたが、この小舟を気に留める様子は無い。
(穴は空いてないし、創りもしっかりしている。きっと中央の大陸から流れてきたんだね。)
アミはその小舟を、陸の方まで移動させる。
そして、砂浜に僅かに残る、小舟のあった場所を始点とした足跡を見付ける。
どうやら所有者が居たらしいと一瞬だけ落胆するアミだったが、直ぐに事実の不和に気が付く。
この時期は基本的に海は大しけで、何処か別の場所からこの場所へ来るには必ず嵐の一つは通過しなくてはならない。
そんな海の嵐をこの魔法の一つすら掛かっていないボート一隻だけで抜ける事など、一流の冒険者ですら至難の業である。
「おい!何やってる!早く来い!」
「お…おう!わあってる!」
得体の知れぬ恐怖の中に沈みかけていたアミの精神を、同僚の一声が助け出す。
(この事は忘れよう。どうせあたいにゃ関係無い事だ。)
アミは小舟を後にし、漁網を同僚へと届ける。
「たく、いつになく遅えぞ。なんかあったのか?」
「別に。ちょいと変な物が流れ着いてて気になったただけさ。」
「んなもんいつもの事じゃ無えか。」
アミとその同僚が談笑をしていた時、不意に二人の元に一人の初老の男が現れる。
銀色の短髪。少し皺の目立つかおや手足。数どい眼光を湛えた黒い瞳。
アミも、その同僚も、その男も、皆が同じ朝布の服を着ており、出で立ちはそっくりだった。
「お、船長!お疲れ様っす!」
同僚は男に向かって快活良く挨拶をし、男も軽く会釈を返す。
「よせやいジンシ。その呼び方は船の上だけだと言っただろう?」
「あ、すいやせんした!バイさん!」
船長と呼ばれた男バイは、アミの方に顔を向ける。
「アミ。話がある。」
「ああアタイっすか?なんでやしょうか。」
バイは、海の方を指差す。
「今日の海は、何処を見ても最高の航海日和だ。漁師も冒険者も問わず、港の連中は続々と出航準備を終えて、この最高の海に繰り出している。
そこで、俺達も今日は臨時で船を出す事にした。と言っても、近くに行って置き網を回収するだけなんだがな。」
「そ…そうっすか。」
「で、アミ。お前も乗るか?」
「…へ?」
一瞬アミは、バイの言っている事が理解出来無かった。
「お前がこの町に転がり込んできてもう5年。今は確か…19歳か?いい加減下っ端業にも飽きてきた頃だろうと思ってな。
幸いにも今日は、俺の58年の漁師人生の中で一番の天気だ。万に一つも事故は起こしゃしねえから安心しな。
…で、来るか?」
アミの口が、頭で何かを考えるよりも前に動く。
「勿論っす!」
その頃にはもうアミの頭からは、先程見た奇妙な小舟の事など綺麗さっぱり消え去っていた。
天候操作が、思わぬ所で思わぬ形で、有利に働いた。