ログアウト
鳩尾から伸びたティーミスの腕が、モーガスの下腹から引き抜かれる。
その手には【奪取した命】は無く、一塊のタール状の液体だけが握られていた。
腕は再びティーミスの鳩尾に引っ込むが、掴み取ったタール状の液体までは体内には収納されず、ティーミスの鳩尾とその周囲を黒色に汚すだけだった。
「ふん!」
モーガスの拳が、ティーミスの軟らかい腹に深々と刺さる。
「ごふはっ!?」
モーガスの拳には受け身を取る隙が無く、ティーミスは後方へと吹き飛ばされる。
ティーミスはレンガの地面で二回バウンドした後、ゴロゴロと転がり数m先でやっと静止する。
風となった衝撃波がようやくティーミスに追いつき、倒れるティーミスに吹き付けられる。
「ぐ…ふぐぁ…」
ティーミスは片腕で腹を抱えながら、必死に立ち上がろうとする。
だが、内臓が潰され、肋骨も折れ、今のティーミスはまともに息すらも吸えない状態だった。
モーガスは姿勢を低く据え、次の一撃を構える。
黒色の瘴気がモーガスの右の拳に集結して行く。
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警告!
敵が強力な攻撃を放とうとしています。防御の準備をして下さい。
【猛牙・寸峰拳】
命中した対象に攻撃力の9500%のダメージを与えます。
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「終わりだ。小童。」
「……」
ティーミスは最期を覚悟する。
最期を覚悟したが故に、至極どうでも良い事を思う。
(モーガスさんと…“もうがす”んぽうけん…ふふ…可笑しいな。)
空気が破裂する音、次いで堅い物同士が勢い良くぶつかり合った時の様な、非常に重苦しい打撃音が聞こえる。
「!」
ティーミスの目の前に、いつかティーミスがこのダンジョンで出会った一人の男が立っていた。
男は巨大な剣でモーガスの一撃を受け止めていた。
「《ジャストガードカウンター》!」
男の持っていた巨剣が白色に輝き、モーガスに向けて衝撃波を放つ。
モーガスは遥か後方、屋敷の壁まで吹き飛ばされる。
「…にぇ…?」
「コングラッチュレイションだ!お嬢さん!」
男はティーミスを抱え上げると、指を宙で忙しなく動かす。
ティーミスは、その指の動きに何処か馴染みがあった。
ただその事について考える前に、ティーミスは過剰な疲労によってその意識を落としてしまった。
「あばよダンジョン!《ログアウト》!」
男がそう叫んだ次の瞬間、二人はそのダンジョンから消え去る。
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ダンジョンを棄権しました。
以下のアイテムが返却されます。
・[山]ダンジョンキー
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◇◇◇
灰色に濁った空から、空の色とは対象的な美しい雨が降りしきっている。
正午過ぎ。
ユミトメザルの防壁の上。
「一応…ダンジョンからは出られたのか。」
ティーミスを抱えた男は、曇天の空を見上げながら呟く。
男の目の前に、システムウィンドウが開かれる。
ウィンドウの中には、文字列の代わりに少女の姿が映し出されている。
髪と目は薄い水色で、ボディラインがくっきりと浮き出る白地に水色のぴったりとした服を身に付けている。
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『世界線波長。全データベースと照合しましたが一致しませんでした。ウォルト聖騎士団にとって未知の世界線の可能性があります。
プロトコルに基づき、本部への通知を発信します。
本部との通信が断裂しています。元世界の世界線固有膜が強靭、又は拠世から900erkm以上外部の世界線の可能性があります。
如何なさいますか?セスベド様。』
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少女は特に抑揚も付けず、機械音声の様に淡々と喋る。
セスベド・ヨゥライ。
それが、この男の名前だった。
(どうするもこうするも、ネットが切れてんじゃ何も出来ねえだろうが…)
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『保存されているデータファイルの再生や、音楽プレイヤーなどのオフラインコンテンツの御利用が可能です。』
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「………」
セスベドはティーミスを床に降ろすと、防壁の上からの外界の景色を眺める。
細雨が霧の様に掛かった、障害物一つ無い黒色の大地は、絶景と言う他無かった。
「イヴ。お前はこの景色、どう思う?」
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『情報の不足の為断定は不可。過去データからに基づいた仮説を生成。』
“世界規模の魔導戦争にて終焉を迎えた世界 89.3%”
“文明から遠く離れた異境の地 10.1%”
“今そこで眠っている少女の、何らかの要因で具現化した精神世界 0.6%”
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「違う。そうじゃない。」
セスベドは続ける。
「綺麗かって聞いてんだよ。」
システムウィンドウの中のイヴが、首を傾げながら答える。
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『すみません。よく分かりません。』
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セスベドはそれ以上喋る気が無くなり、再び風景を見つめる。
ふとセスベドの鼻を、雨に混じった微かに腐乱臭が突く。
セスベドは風景から目を落とし、直ぐに腐乱臭の発生源を発見する。
「おっと…こりゃちょいとグロいな…」
雨の中でスヤスヤと眠るティーミス。
その腕のあった場所の切断面が、赤黒く変色し僅かに赤色の瘴気を立ち登らせていた。
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『Zロジック型瘴気による化膿症状の可能性、99.9%以上。
深度。中程度。現在所持中の医療アイテムによる治療が可能です。』
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「おーけい。取り敢えず室内に行こう。」
セスベドは再びティーミスを抱え上げると、ユミトメザル側に向かって防壁の上から飛び降りる。
自殺にすら使えそうな程の距離を落下したにも関わらず、セスベドは地面に足で着地をし、ティーミスに至っては落下の衝撃一つ受けなかった。
防壁とユミトメザルの城は、街一つ分程離れている。
「《兵法・瞬歩》!」
セスベドは身を屈め、地を蹴る。
瞬きほどの時間の間で、セスベドは30km程の距離を移動し城の前に辿り着いていた。
「鍵は…掛かってねえみたいだな。」
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『セスベド様の磁気グローブの、自動解鍵が働いただけです。』
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セスベドはユミトメザルの正門を開け放ち、中に入ろうとした瞬間だった。
「……!」
セスベドの戦士としての感覚から数瞬遅れて、セスベドに付き従っているシステムウィンドウも騒ぐ。
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『警告』
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背後から音速で飛来してきた黒色の短刀を、セスベドは目視する事無く全てを回避する。
「ぐるるるるるがう!」
「ああ!?」
背後から迫って来た何者かをセスベドは片手で掴むと、そのまま自身の目の前、城の中へと放り込む。
「犬?…モンスター…女!?何だこりゃ?」
放り飛ばされたピスティナは直様体勢を立て直し、手も床に付けた四足状態でセスベドを威嚇する。
歯を食いしばり、激情に顔を歪め、不審者を睨み続けている。
「ダンジョンの番人ってか?良いぜ相手してやるよ。」
セスベドの周囲に、ピスティナの放った無数の短刀が出現する。
その刃先は全てセスベドに向いていたが、ティーミスに向く物は一つとして無かった。
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《非物理概念否定パルスショック》。チャージ。
起動。
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セスベドの右腕のグローブから、半透明の衝撃波が放たれる。
衝撃波は部屋中に広がったが、ピスティナはおろか周囲の物体にすら何一つとして外傷は与えなかった。
“カラン…カランカラン…ガシャン!”
「…あ”?」
ただ一つ変わった事は、ピスティナの放った短刀が持っていた浮力が全て失われ、重力に従い地面に落下した事だけだった。
「訳分かんねえ能力なんて使わないでよぉ、正々堂々戦おうじゃねえか!」
「ぐ…ぐるる…が!?」
ピスティナは倒れ、その身体は融解し赤黒色の半液になってしまう。
生きてはいるが、体を保てず一時的に本来の姿に戻っただけである。
セスベドの背負っていた大剣も、漆黒に染まっていた筈が剣の柄に着いた黒い宝石を除き全てが元の大剣の状態に戻る。
「なんだよつまんねえな。…と、そうだそうだ。イヴ。」
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パルス維持予測時間。2時間32分。
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「それより早く、医療アイテムを…」
セスベドはシステムウィンドウに向かって手を伸ばすが、伸ばした手はシステムウィンドウをすり抜けるだけだった。
「あ。」
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パルスの影響を受けるのは貴方も同じですよ。セスベド様。
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「…ッチ、しゃあねえか。」
セスベドは地面に散乱している短刀を適当に蹴って退かし、カーペットの上にティーミスを仰向けに寝かせる。
腐乱臭は少し強くなっていた。
セスベドは寝かせたティーミスから数歩下がり、背負っていた大剣を構える。
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荒療治ですね。
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「何処がダメになってないか判るか。イヴ。」
ティーミスの右腕の肩の辺りに、赤色の点線でガイドが表示される。
「《強斬り》!」
セスベドの大剣が、ティーミスの右肩の辺りに振り下ろされる。
ティーミスの右腕のもう半分も断ち切られ、鮮やかな赤色の切断面が露わになる。
セスベドはすぐさま駆け寄り、懐から中程度のサイズの酒瓶を取り出し口に含む。
酒を、ティーミスの傷口に霧状に吹き掛ける。
次にセスベドはポケットからそのままポケットサイズのギチギチに巻かれた包帯を取り出し、酒瓶をひっくり返し包帯に火酒をかける。
包帯は液体を吸うとみるみるうちに膨張していき、ティーミスの傷口を塞ぐのに十分な量と大きさになる。
「はぁ…後で訴えんじゃ無えぞ。」
腕を切断された傷口を包帯で防護する一般的な方法は、胴体ごと包帯で巻き付ける方法である。