グロテスクメタモル
「あ…あああの…えと…」
ティーミスは鍋から少しづつ後退しながら、その瞳でシュレアに訴えかける。
シュレアは、満足そうな笑顔をティーミスに向けるのみである。
“アアアアアアアアアアアアア!!!”
「ひぅい!?」
ティーミスは、怪異や幽霊と言った類の物が大の苦手である。
ティーミスの背は既に壁にぴったりとくっついていたが、その脚はなおも後ずさりしようと動いている。
「ぷ…ぷれひぇ…これが!?」
“アアアアアアアアアアアアアアアアア!!!”
「ひきゃああああああ!」
シュレアの実験室の中は軽いパニック状態だったが、当のシュレアだけは落ち着いている。
事を有耶無耶に終わらせると言う、当初の目的は達成された。
“アアア……アアアアアア!!”
肉体を失ったタローエルの魄が、新たなる憑代を求め鍋から這い出て来る。
「こ…ここ来ないで下さい!」
ティーミスはアイテムボックスから魔刀を引っ張り出し闇雲に振り回すが、床や壁に傷は入っても霊体にダメージを与える事は出来無かった。
“アアアアアア!”
「きゃあああああ!」
タローエルの魄は、ティーミスのへそのすぐ横の辺りに右腕を突っ込む。
タローエルの魄はそのまま、滑り落ちる様にティーミスの体の中へと入り込んでしまった。
否、ティーミスの体内では無く、ティーミスのへその横に描かれた、精巧なユウガオのタトゥーの中へと入り込んでしまった。
「あ…ああ…」
ティーミスは度重なるショックによりそのまま気を失う。
事の成り行きを静観していたシュレアは、此処で何が起こったかを誰よりも早く理解する。
「キ…あの堕天使まさか…」
シュレアはのびているティーミスの元に慌てて駆けつけ、ティーミスの横腹のタトゥーを確認する。
ティーミスは動いていない筈だが、ユウガオのタトゥーだけがそよ風に吹かれた様に微かになびいている。
少なくとも先程までは、このタトゥーにこの様な特徴は存在していなかった。
どんな物でも、生命を宿す可能性は存在する。
数十年間大切にされてきた歴史を持つアンティークの人形が動き出したり、何らかの事件や事故やその被害者との関わりが深かった物品や場所が奇妙な挙動を起こしたりするのが、その例だ。
知識の無い殆どの者はそれを怪現象と言う言葉で片付けるが、これにはれっきとした理屈が存在していた。
どんな生物の魂も不定なエネルギーとして存在し、常に周囲へとほんの少しづつ拡散し続けている。
これが一定に達すれば生命は死を迎える。
漏れ出た魂の残滓は、通常ならば周囲に散らばった後に新たな生命や輪廻へと還元されるのだが、極微量がその物品に留まり続ける事がある。
非常に長い時間をかけて、そう言った物の中に魂の残滓が蓄積し、集結し、そこに小さな一つの魂が生まれた場合、それが怪現象とも呼ばれている物品の生物化が起こる。
そして怪現象の発生原理の代表的な物にはもう一つ、前者の物よりももっと単純な理屈の物がある。
それが、死した魂の全て或いは半分が、そのまま別の物に乗り移るケースである。
これを意図的に行う行為は祈祷術や死霊術、物品活性術と呼ばれ、偶発的に起こった事で生まれた物はアンデッドやマテリアと呼ばれる。
今回ティーミスのタトゥーに起こった事は、その後者である。
タローエルの魂の半分、衝動や本質的な部分が、僅かに魔力を宿しているタトゥーに憑いた結果、ユウガオのタトゥーが魔法半生物へと昇華したのだ。
(本当の意味でのティーミス様の一部になれるのは羨ましい…ですが。)
シュレアは様々な薬品や器具が所狭しと並べられた木棚から、レンズを緑色のペンキで塗装した瓶底眼鏡の様な、奇天烈な形のゴーグルを取り出して掛ける。
(やっぱりあのお美しい刺繍に宿ったのは魂魄の中の“魄”の部分だけ。つまりもう半分、記憶や自我の部分は…)
シュレアはゴーグル越しに、未だ煮立っている薬鍋の方を見る。
(当初の予定とは違ったけど、結果オーライかな。)
鍋の中を除き込まなくても、シュレアは自身にとって必要な情報を全て手に入れる。
「キュフフ♪」
シュレアは、背徳心に溢れた笑みを溢す。
死者への冒涜とは、種族問わず道徳的なタブーだった。
ただ、魔族にとってタブーと言う言葉は、禁断の遊びを指す言葉でもある。
「キュフフフフ♪可哀想に。半分に逃げられてしまいましたね♪堕天使様♪」
タローエルの死体を煮詰める薬鍋に向けて、シュレアは勝ち誇った様な声色で台詞を吐く。
「御心配なさらずとも、わたくしは貴女の事はずうっと憶えていて差し上げますわ。術が解けて貴女がうっかり成仏しない様に、ですの♪」
当然ながら、鍋からの返答など無い。
鍋の中には死体と高温の薬品しか入っていないのだから。
「キュフフ♪その言葉遣いは直した方が良いですよ♪これからわたくし達、ながぁい付き合いになるのですから♪」
シュレアは天井にめり込んだままの鍋の蓋を蝙蝠を使って天井から取り外し、そのまま蓋を自身の手元にまで移動させる。
シュレアは蓋を持ったまま、煮立つ鍋の前まで移動する。
「最後に言い残す事は?」
部屋には暫し、鍋の煮立つ音だけが支配する静寂に包まれる。
次の瞬間、シュレアの顔から余裕が消えその表情は忿怒一色に染まる。
「…二度とその顔をお見せしないで下さいまし!」
シュレアは勢い良く鍋の蓋を閉じ、更に古代魔族語で書かれた呪符を無数に乱雑に鍋に貼り付けまくる。
「キュフフ♪このままあと五百年程煮込めば、最上級の霊薬の完成ですの♪使い道は…出来上がったら考えましょう♪」
シュレアはティーミスの元まで駆け寄り、気絶している事にも気付かずにティーミスの肩を掴み思い切り揺さぶる。
この行為自体には特に意味は無い。
ただ、シュレアの気分の高揚による物である。
「…うん…」
シュレアに揺さぶられ、ティーミスはゆっくりと目を開ける。
「…私…一体どうなって…」
不意にティーミスは自身の太腿の辺りに視界を得た為、実験机の下に落ちているコインを見つける事が出来る。
ティーミスはそのコインに手を伸ばそうとして、自身の右の太腿が視界に入る。
「………?」
ティーミスの太腿には、黒い白目に赤色の瞳を持った巨大な瞳があった。
ティーミスと太腿の瞳の目が合った瞬間、太腿の瞳はゆっくりと目を閉じ、溝も消え、やがて太腿は元通りに戻る。
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あなたは次の死亡までの間、装飾品【半魂寄生共生体】を装備します。
この装備はあなたの体の一部分としても扱い、死亡以外の一切の要因によって解備する事が出来ません。
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「ひ…ひ…いい…」
ティーミスは、恐る恐る右手を開く。
今の右掌には何も無く、いつも通りのティーミスの手だった。
何故だかティーミスは、誰に教わったでも無く“それ”の使い方が分かっていた。
「…私の顔…どうなってますか…?」
ティーミスの右掌に、真っ直ぐに切り傷の様な溝が走る。
溝はばっくりと開き、その向こうからは本来あるべき血と筋肉の代わりに、掌全体に及ぶ大きさの目が現れる。
ティーミスは掌に生まれた目から齎される視界情報も得て、自身の顔を確認する事が出来た。
そこには、怯えた小動物の様に震える少女の、死刑を宣告された小心者の囚人の如く恐怖に染まりきった表情を浮かべた顔があった。
「…ぃ……ぃぁ……」
ティーミスが掌の瞳に膨大な嫌悪感を抱いた瞬間、瞳は例の如く直ぐ様その場所から消える。
次の瞬間、ティーミスは悟った。
シュレアからの贈り物を、その意味を。
「…化け…者…」
「まあティーミス様♪儀式も無しに魄との共生を果たす何て、何と…」
シュレアの手が再びティーミスに伸び、ティーミスはシュレアの手を左手で払う。
シュレアの手に当たる瞬間だけ、ティーミスの左手は黒色に変色した。
“ドシャシュ!”
シュレアの腕が、肩の辺りから吹き千切れる。
腕は壁に叩きつけられた後、そのまま床に落下する。
「ご…ごめん…なさ…」
ティーミスはモンスターと呼ばれた。
そして、ティーミスは本当にモンスターになった。
それはただの偶然なのか、それとも運命なのか、それとも、
「…私…モンスターって…呼ばれて…」
名前の、形容の持つ目に見えない力が働いた結果なのか。