地平線を曲げる物
正午。
ユミトメザル。
「………」
3日間の間、ティーミスの部屋には誰も訪れなかった。
ティーミスが何処を私室に指定しているのか、ティーミスが今どんな状態にあるのか、誰も知らなかったのである。
従属者はあくまでも従属者。ティーミスを想う家族でも、本質的な友達でも、ましてや恋人でも無い。
ティーミスは暫しまごついた後、ゆっくりとベッドから這い出る。
三日振りにベッドから出て、ティーミスが最初に抱いた感想は、
「お腹…空きました…」
ティーミスはもう何ヶ月も飲まず食わずで過ごしている。
当然の生理反応だった。
しかし、ティーミスは困った。
この大陸にはもう、人間はおろか食べられそうな動物すらも殆ど居ない。
「…ん、人間が居ない?」
ティーミスはふと思い付き、ユミトメザルの城の屋根の上まで瞬間移動する。
「…ほぉ…」
屋根に腰掛けながら、ティーミスは未だ草一本生えていない焦げ色の平坦な世界を眺める。
案の定美しくて退屈な地平線は、見覚えの無い沢山の建造物によって歪められていた。焼け野原の上に自然発生したまま放置された、沢山のダンジョンである。
人は空腹時に食べ物を見ると、腹が鳴ったり唾がよく出たりする物である。
ティーミスにも、同じ現象が起きた。
ティーミスにとってダンジョンとは、おもちゃのおまけ付きのランチプレートに等しかったのである。
ティーミスはコンコンと屋根を叩き、決して大声とは言えない声で呼び掛ける。
「ピスティ………いえ。シュレアさん、一緒にお出掛けしましょう。」
次の瞬間には、ティーミスの背後にはシュレアが、ティーミスに背を向けた状態で現れていた。
シュレアは背に生えた翼を使って浮遊しており、足は僅かに屋根から離れていた。
「キィ♪」
「…シュレアさん、私に、お詫びをさせて下さい。」
「キィ?お詫びですの?ティーミス様が?どうして?」
「…私の、心の問題です。」
「キィ?」
ティーミスはそれだけ告げると屋根から立ち上がり、少ししゃがんだ後ユミトメザルの防壁の外まで跳躍する。
その衝撃によって城の屋根が幾分かの損害を受けたが、その程度ならばすぐさま跡形も無く再生する。
「キィ!?」
シュレアは慌てて主人に追従する。
魔族の暮らす地下に比べて、地上は目印となる物も少なく迷い易い。
「…っと。」
ティーミスは、ユミトメザルから見て東側の大地に着地する。
特に方角などを定めた訳では無く、これに関してはたまたまである。
「シュレアさん。」
「キ…キィ…キィ?」
「あれ、見えますか?」
ティーミスは平坦な焦げ地の彼方此方に聳え立つ、古めかしい建造物の数々を指差す。
「ダンジョン…ですの?それがどうかしましたの?」
「数日前私は貴女に、危険で五月蝿い実験はユミトメザルではしないで下さいって言いましたよね。」
「キィ。」
「…ですので、代わりにあのダンジョンで熟すのはどうでしょうか。」
「い…良いんですの?ですがそれでは財宝が…」
「…皆様が財宝と読んでいる物全て、私にとってはただのガラクタです。奪取するも破壊するも、貴女の好きにして良いですよ。」
確かに言語のキャッチボールは出来ているのに、ティーミスはそれを会話だとは思えなかった。
別に普通の会話と違う所は何一つとして無いのに、何故かティーミスは、今シュレアと意思疎通をしている様には思えなかったのである。
「あの軍人のゾンビとドラゴニュートは連れて行かないんですの?」
「ピスティナちゃんは“撤退”と言う概念を知りませんし、カーディスガンドさんはきっと私の取り分まで塵にしてしまうので…」
「キィ。」
シュレアはティーミスからそれだけ聴くと、不意にティーミスを抱擁する。
「にゃ!?」
次の瞬間には、シュレアはティーミスの身体を通して兵舎の中に行ってしまう。
「………」
ティーミスは首を傾げつつも、ダンジョンの方へと歩み始める。
数分後、ティーミスの手首から赤黒い半液が独りでに一滴垂れ、地面に垂れた液溜まりからは赤い棺が縦方向に突き出す。
棺の蓋が内側から力強く吹き飛ばされ、そこからはゴシックロリータドレスの代わりに赤い学者ローブとゴーグルを身に付けたシュレアが現れる。
「キュフフフフ♪」
シュレアは至極楽しそうな様子で、泡を吹くフラスコ片手に浮遊混じりで駆け出す。
数刻遅れその棺からは、4本足の動く紅い四角いテーブルも現れる。
机脚を動物の様に動かし、走ってシュレアの後を追っていった。
「…いつものシュレアさんとは、少し印象が違いますね。」
ふとティーミスは、自身の首をさする。
ティーミスはかつて生前のシュレアから【魔睡薬】なる薬剤を盛られ、その時の【魔睡薬】は未だにティーミスの身体に血などの体液と共に存在している。
シュレアは貴族家の高貴なお嬢様であると同時に、熱心な薬学者としての一面もあった。
「…学者、ですか…」
ティーミスは地面に座り。シュレアが入ってものの数分で崩れ落ちて行くダンジョンを眺めながら物思いに耽る。
ティーミスは、かつて自身の元を訪ねて来た老学者の事を思い出す。
シュレアも彼も、持ちうるエゴの種類は同じなのだろうか。
ダンジョンの一つが、巨大な爆柱に包まれ微塵に消える。
「………」
ティーミスはゆっくりと立ち上がると、シュレアとは反対方向、ユミトメザル西側の大地へと移動を始める。
霊体か、無機物か、捕食するのも憚られる程の不潔な性質で無い限り、ダンジョンのモンスターは全て、ティーミスの食事だ。
ティーミスにとっての楽園が少しづつ形成される度、それ以外の全ての存在が虐げられて行く。
ティーミスの持つ能力は、多対個の関係性を逆転させつつあったのである。
〜〜〜
「ふー…」
タローエルは結局、その国に存在する全ての衛兵を屠ってしまった。
倒したのは衛兵のみだったが、いつの間にやらその国からは人間が消えていた。
敵を全て倒した為、ステージがオープンワールド化したのである。
「…はぁ…静か。自分の力で何かを勝ち取るのは、こんなにも素晴らしい心地だったのね!」
タローエルは堕天使である。
堕天使は、きっかけ一つでその精神構造も容易く変質する物である。
「…足りないなぁ…これじゃあ…」
タローエルはその指先から、目に入る建造物全てに向け黒炎を吹き出す。
黒炎は建物を包み込み、瞬く間に融解させていく。
タローエルの目には。その様子が至極愉快に映る。
「ふふ…ふふふふふ!ああ…たかが幻影の中ですらこれ程までに…ならば、現実では一体どれ程美しいのでしょう!ふふふ…あはははははははは!」
黒炎に囲まれながら、タローエルは崩壊する世界の中心で高笑いする。
この国についての情報が記された図書館も、有益な武器の置いてある国の兵舎も、全て等しく黒炎の燃料になっていく。
所詮は情景でしか無いが、それでもタローエルの心を変えるには充分過ぎる、タローエルの“現実”だった。
不意に空が板ガラスの様に割れ、タローエルの立っていた地面が陥没し、タローエルは地面に開いた穴へと落下する。
穴の中には黒塗りの闇が広がっており、タローエルの意識は強制的にその情景から締め出された。
「…!」
不意にタローエルは、何も無い焦げた大地の上で目を覚ます。
タローエルの視界には、僅かに青色を取り戻し始めた黒煤の空が広がっている。
「…私は…一体…」
タローエルはその場からよろよろと立ち上がる。
その頭には、先程までの情景の記憶は存在していなかった。
「…まあ、何て素敵な地平線…邪魔なダンジョンが無ければ最良い。」
タローエルは、その指先で黒炎を軽く弄る。
情景内の事は覚えていなかったが、そこで変わった精神構造は健在だった。