哲学ゾンビ
ティーミスの創造物が、ティーミスの力に巻き込まれて破壊される事は無い。
ユミトメザルの城の一室。
その日、無数にある空っぽの部屋の中の一つが、古い聖典や書物によって埋めつくされた。
日光を吸った古書と言うのは温かい物で、積み上げられた古書を布団代わりにピスティナが昼寝をしている。
ティーミスはその古書の部屋で書物の山にもたれかかりながら、各地から盗み出した聖典を読み漁っていた。
「…やっぱり、罪人はみんな地獄に送られてしまうのですね…」
ティーミスは、こんな自分でも縋れる神は無いかと探していた。
自分でも覚えられない程の沢山の命を殺め、最早罪とそれ以外の行動の区別さえつかなくなったティーミスでも、救ってくれる神は居ないかと。
結論から言えば、この世界にはそんな神は居なかった。ティーミスもそれは薄々勘付いており、現在は半ばただの読書の時間となっている。
ティーミスがまだ他者から人間として認められていた頃も、ティーミスは読書が好きだった。
しかしそれはただ単に、一般的な“文字好き”の域は超えない物であった。
「…楽園…ですか…行ってみたいですね…」
今のティーミスにとって、文字を読む事は現実逃避の手段だった。
本はティーミスが来たからと行って逃げ出したりはしないし、文字を通してティーミスの頭の中に生まれた登場人物が、ティーミスの不注意で死んでしまう事も無い。
本は、今のティーミスの数少ない友達だった。
文字から送り込まれる様々な情景が、ティーミスの中で一つの妄想の世界を形作って行く。
妄想の中では、ティーミスは幸せな普通の少女だった。力は無いが、力によって失われる筈の物はみんな持っている普通の少女だった。
妄想の中のティーミスには、言葉を喋る友達が沢山居る。アトゥの街並みは忘れてしまったので、思い描いた理想の故郷に住んでいる。毎日学校に通っていて、未来に希望を持っている。
ティーミスの妄想は風船の様に取り留めも無く膨らんでいき、
“ドン!”
「にゃ!?」
屋外より唐突に鳴り響いた爆発音と共に弾け飛んでしまう。
「な…何事ですか…」
“ドンドン!”
「にゃあ!?」
続いて響いた二発の爆発には振動も伴っており、本の山は崩れ、ティーミスは転げ落ちたピスティナの下敷きになる。
「…グルル…」
ピスティナは不機嫌そうに目を覚まし、ティーミスはピスティナと本の下からゆっくりと這い出る。
「…何事ですか…」
ティーミスは自身の真下の床に空間の穴を開け、爆発音の音源と思しき場所まで移動する。
本来ならば城下を見下ろす為に作られた、城のバルコニーである。
「キュフフ。次はぁ…」
“バササ!ドサ!”
「キィ?」
シュレアの背後に数冊の本とティーミスが、何処かから落下するかの様に出現する。
「キィ♪」
「一体全体何やってるんですか、シュレアさん。」
バルコニーには普段とは大分違う格好のシュレアが、無数の薬瓶や化学器具の並べられた机と共に居た。
「実験ですのよ♪わたくしの、わたくしによる、貴女様の為の崇高なる探求ですのよ♪」
「…?」
そう言うとシュレアは、机の上に置かれている円筒形で金属製の物体を手に取る。
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【ロードハート・エクスプロードポーション】
薬学を司る悪魔により調合された、最高品質の【爆発のポーション】です。
超広範囲に渡り強力な爆発属性ダメージを与え、爆破地点の地形を大きく変更をします。
ーーーーーーーーーー
「お試し下さい。ティーミス様♪」
「………」
ティーミスは徐に、その黒色の少し長い円筒形の物体をバルコニーから城下の何も無い地面へと放り投げる。
缶は草原の地面に落ち、数回程軽くバウンドし、やがて短い距離を静かに転がった。
「…あの、これ…」
次の瞬間ティーミスは、シュレアの生気を感じられない生暖かい手によって耳を塞がれる。
不意に、地面に落ちていた金属の缶は爆発する。
一瞬にして辺りには土誇りが立ち込め、シュレアに耳を塞がれているとは言えティーミスは鼓膜が破れそうになる程の爆音を聞く。
「にえー…」
爆心地にはクレーターの様な窪みが生まれており、ユミトメザルの壁や城の一部などが吹き飛んでいた。
「キュフフ♪今投げたのは最高傑作だったですわね♪」
ユミトメザルに齎された破壊はすぐさま跡形も無く再生したが、ティーミスの目には先程の情景が焼き付いていた。
「う…うるさすぎますよ!こんな物投げちゃ!」
「キィ…でも、外で実験してしまうと、そのうちせっかくの美しい真っ新な大地が、たこ焼き焼き機みたいになってしまうんですの。」
「たこ…何ですって?」
「気にしないで下さいまし。…しかし、お城への騒音に関しては完全に考慮外でしたの。」
「…シュレアさん、」
「キィ?」
「やっぱり、私との会話出来てますよね。」
「…キ…」
ティーミスは確信していた。
シュレアだけ、他の二体の従属者とは明らかに何か違うと言う事を。
「…知ってますよ。この事を私に悟られない様にしていた事くらい。」
「キィ…」
「元からそうだったのか、それとも何かのきっかけがあってそうなったのかは分かりませが…一つだけ教えて欲しい事があるんです。」
「キィ?」
「…私は、誰かを幸せに出来たでしょうか。ただの一人でも、幸せに出来たでしょうか。」
「勿論ですのよ。」
「…それは、貴女の本心ですか?それとも、その身体がそう言わせているんですか?」
「さあ…どうでしょう。思い出したのはせいぜい自分の身の上くらいですし。わたくしにも分かりませんわ。」
シュレアは流し目気味にそう呟くと、怪しい形のゴーグルを付け再び“実験”に戻る。
「…少なくとも、わたくし自身は何か変わったとは思えませんの。貴女へのこの気持ちも、手足の感覚も、何も変わっていない様に思えますわ。」
「…そうですか。」
シュレアは再び机の上の缶を握るが、ふと何かを考え込むと、缶から手を離し別な薬剤を手にとる。
「爆弾以外にも色々作りましたのよ♪例えばこれは、振り掛けた植物にカエルが実る様にする肥料。こっちは空気に触れた瞬間石の様に固まる拘束用のポーション。それでこっちは若返りの…」
「………」
ティーミスは何も告げずに、城の屋内へと入って行く。
本来バルコニーから城の中に入るとエントランスなのだが、ティーミスが通るその瞬間だけは、ティーミスの私室に直接繋がっていた。
「ひぅ!」
ティーミスはすぐさまベッドに駆け込み、その身を布団の中に埋める。
ティーミスは怯えている。
「あれが…哲学ゾンビって言う奴ですか…」
哲学ゾンビとは、その外面の行動では生者と区別をつける事が出来無い存在の事を言う。
哲学ゾンビは普通のゾンビとは違い、外面上は普通の生物の様に楽しさや怒りと言った感情を表す事も出来るし、時には何かを議論する事も可能である。
しかし限り無く生者に近いだけで、その内面がゾンビである事には変わり無い。
楽しさや怒りを表現する事は出来ても、実際にその感情を抱く訳では無い。
いわば、毎秒超高度かつ複雑な条件反射を行なっている様な物である。
本来ならばそれは哲学上の架空の存在であるにも関わらず、ティーミスは何故だかシュレアが、その哲学ゾンビであると確信したのである。
根拠は無いが、絶対にそうであると言う確信をティーミスは抱いたのである。
そしてそんな確信が酷く気持ち悪く、ティーミスはそんな自身の思考によって急激に精神を抉り取られた。
笑っている様に見えて、実際に笑っていて、それでいて楽しいと言う感情は抱かない存在。
思い出を持っている様に振る舞い、実際に記憶情報自体は持っていて、それでいてそれを思い出とは思っていない存在。
ティーミスの中でのシュレアは、そんな得体の知れない、説明も付けられない存在である。
「……?」
不意に、ティーミスの年相応にしては発達した思考回路が裏目に出る。
もしかすれば、自分もシュレアと同じ存在では無いか。
自身は今気持ち悪いと感じているが、実際はそう思い込んでいるだけでは無いか。本当の“気持ち悪い”と言う感情はこんな物では無く、実際は今、自身は何の感情も抱いていないのでは無いか。
自身の一挙一動全てが条件反射なのでは無いか。それは死んだ後からずっとそうなのか。それとも産まれた時からそうなのか。他の人物、否、他の生きとし生けるもの全てがゾンビの可能性を、どうやって否定すれば良いのか。
哲学ゾンビ論には終わりは無く、ティーミスの思考も哲学のメビウスへと沈んで行く。
本来の人物ならばある一定の頃合いで思考を中断するのだが、ティーミスは本物を見た故に、そう簡単には区切りを付ける事が出来なかった。
結局ティーミスは、その後三日程寝込んだ。