油とスニーキング
「クソ、あの□□○…一体何処に消えやがった…」
「落ち着け。あれだけ目立つ姿をしているのだ。慎重に捜索を続ければ、いずれ見つかる筈さ。」
タローエルは、街道の植木の下の低木に隠れながら、二人の衛兵のそんな会話を聞く。
精神読解と持ち前の記憶力で、特有の単語などを除けば何とか彼らの言葉を理解できるようになっていた。
今の所試した事は無いが、恐らくは彼らの言葉を話すことも可能だろう。
(さてさて…探索と言っても、先ずは何処から始めるべきか…ん?)
タローエルの元に、何処からとも無く香ばしい匂いが漂って来る。
タローエルにはそれが何の香りかは分からなかったが、少なくとも食べ物だろうと言う事は理解出来た。
幾らでも傷付く事が出来るのと同じ様に、此処では何をどれだけ食べても何の問題も無い。
此処での行動は、基本的に制限は無い。
タローエルは香りに誘われる様にそっと茂みから身を起こし、物陰伝いに香りの発生源を目指し移動を始める。
此処での食事には特に意味が無いが、傷が出来ず痛みだけを得られるように、その食べ物の持つ味を感じ取り、味覚によって幸福感を得る事も出来る。
タローエルはしばし移動を続け、やがてその匂いの発生源に辿り着く。
香ばしい匂いの発生源は、住宅街に紛れるように建つ、タローエルにとっては未知の何かを売る一軒の店だった。
店先には、湯気の立つ樫の木色の液体が入った大小様々なビンが置いてあり、瓶にはそれぞれ何かの文字と値札が付いていた。
タローエルはあくまでも聞き取れるようになっただけなので、この世界の文字までは読めない。
避難してしまったのか、そこには店主らしき人物の姿も無い。
「…」
匂いの発生源は間違い無く、あの樫の木色の半透明の液体である。
タローエルはその液体の味見をすべく手を伸ばし、
「居たぞ!油屋の前だ!」
「!」
あえなく衛兵達に見つかってしまう。
タローエルはその店から咄嗟に、片手で持てる大きさの瓶を手に取る。
(暖かい…と言うか熱い!)
揺らしてみて初めて、この瓶の中身の液体は相当粘度が高い事が分かる。
恐らくは衛兵の言う通りこれは油だろうと、タローエルはそう想像する。
ならば、
「食らえ!」
タローエルは、燃える剣を持つ衛兵達にその瓶を投げつける。
相当硬い液体なのか、蓋も付いていないのに瓶の中身は零れない。
「飲油如きで何が…」
タローエルは指先から、黒色の火の粉を鉄砲の様に発射する。
射出された火の粉によって空中で瓶が割れ、黒炎が引火した油が、衛兵達に向かって飛散する。
「ん?…な、何だこれ!?ただの火じゃ無いぞ!」
衛兵達の鎧や盾に油と共にこべりついた黒炎は、その耐火金属の装備を局所的な熱によって融解させていく。
鍛冶屋の中以外で鉄が溶けている所を見るのは、この衛兵達は初めてだった。
衛兵達は慌てて燃え上がる装備を脱ぎ捨てるが、タローエルはその隙に、油の瓶をもう1本拝借した後その場から逃走する事に成功する。
「…ふぅ…」
タローエルが行き着いた先は、この国を外界から隔てる背の高い障壁の前。
言うなれば、この国の国境付近である。
「………」
タローエルは神妙な面持ちで、店から拝借してきた瓶詰めの油を見つめてみる。
どうやらこの油が、この国の人々の主食らしい。
ただこの油、香りは良いが食欲を唆る見た目では無い。
「…やっぱり、見ただけじゃ味は分かんないよね。」
タローエルは勇気を振り絞り、瓶を傾け、瓶とともに傾いた油面から油を指で掬い取る。
油は案の定火傷必至の温度だが、今のタローエルには特に問題では無い。
「ぱく。」
タローエルは、掬い取った油を指ごとしゃぶる。
「…っ!」
その油が燻製肉の様な味わいだった為、タローエルは反射的に自身の指をがりりと強めに噛んでしまう。
タローエルは慌てて指に付いたその食用油を全て舐め取り、指を口から出す。
指には傷一つ付いていなかったが、ズキズキとした痛みは残っている。
もしも同じことを現実でやっていれば、タローエルは油の他に自身の血も味わう事になっていただろう。
(味はともかく、食感とか質感は殆ど水あめみたい。)
味を確認したタローエルは、手に持っている瓶を国境の障壁に投げつける。
瓶は割れ、壁やその周囲には樫の木色の油が飛散する。
「…?」
ふとタローエルはとある事に気付く。
この一角、否、この街には、水の気配が全く無かったのである。
家を覗いてみても水場らしきものは何処にも無いし、用水路などは何処にも見当たらなかった。
その代わりに、この国には異様に炎とそれに関係する物が沢山あった。
未展開の防火壁。衛兵の持つ火属性の剣。少し汗ばむほどの外気の筈なのに、タローエルの眼に入ったすべての家の暖炉は轟々と炎をあげている。
タローエルの知る異世界の概念の中に、召喚獣の住まう異界と言う物があるが、そこに住む人類ですらこれほどまでに現界から逸脱した文明は持っていない。
この環境では、普通の人間では暮らす事も出来ない。
しかし現に、この国にはタローエルの見たどんな文明の街よりも沢山の人々が存在している。
タローエルの脳裏に、とある仮説が生まれる。
此処は、今知られている概念では説明を付ける事が出来無い程の遠い場所の記憶。
もしもそうならば、タローエルがその身に取り込んだ、大陸を焦土と変えたあの黒炎は、そんな場所に由来を持っていると言う事になる。
タローエルは自身の関わっている物のスケールの大きさに思いを馳せ、不意に背筋を震わせる。
誰も知らない未知なる深淵に、ティーミスを縛るスキルの核心に、タローエルは踏み込もうとしているのだ。
「…今度は誰。」
タローエルは自身の付近に強者の気配を感じ、先程までの思考を頭の片隅に全て押し込めてしまう。
国境の防壁の頂上に、一人の大男が佇んでいる。
「貴様か。不法入国者と言うのは。」
大男は防壁の上から飛び降り、タローエルの前に地鳴りと共に着地する。
下半身は柔道着の様な物を纏ってリ、腰の所には赤色と白色の荒縄が編み合わさった物が巻き付けられている。上半身は小さな赤い意志のネックレス以外は何も身に着けておらず、筋骨隆々の肉体を、まるで見る者全てに威圧でもするかのように晒している。
頭髪は無いが、顔立ちからして五十歳前後である。
「まあ、貴方達から見ればそうなるわよね。でも安心して。いずれ全て消えて無くなるから。」
「…貴様が何を思い何の為この場所に来たかを俺は知らないし、関係無い。重要なのは一つだけだ。」
男は姿勢を若干低くし、タローエルに向けて両の拳を構える。
「貴様が法を犯したか否か。俺に今必要な事実はそれだけだ。」
「ふふ。随分と単純な思考ね。身体を鍛えすぎて、脳味噌まで筋肉になっちゃったの?」
タローエルは口でその男を煽りつつも、その目は周囲の状況を事細かに観察している。
分かったことは二つだ。
一つ、自身は既に衛兵に包囲されていると言う事。
もう一つは、現状では逃走経路を見つけられないと言う事だ。
「くく…ははははは!脳味噌が筋肉だと?随分と洒落た言い回しじゃないか。…良かろう。」
不意に、男の身体が炎に包まれる。
「王国直属第四精鋭騎士団団長ドレアノン=シャッズとして此処に誓おう。俺は貴様を、必ずやこの場所で打倒す。」
タローエルは火だるま状態のドレアノンを眺めて一言呟く。
「…良いわ。戦いなんて、どうせ避けては通れないもの。」
そう言うとタローエルは、右手の指をパチンと鳴らす。
次の瞬間、壁や床にこべり付いていた油が急に凄まじい勢いで沸き立ち始め、一秒も経たずにドレアノンも巻き込んだ黒炎の爆発を起こす。
石レンガ造りの障壁には巨大な穴が開き、衛兵達によるタローエルの包囲網は大きく乱される。
「案の定、だね。」
障壁の穴の向こうは、外の景色では無く黒塗りの闇が広がっている。
タローエルはこの世界からの出口、つまりは情景の綻びを自作したのである。
本当にまずい状況になっても、いつでも逃げられるように。
「これしきで、俺に傷を負わせられるとでも思うなよ。」
ドレアノンは、タローエルのその行動の真意を理解していない。
タローエルはその様子を見て嘲笑するのである。
やはりただの脳筋か、と。