黒炎の記憶
「…此処は…?」
タローエルは、何処かの王室のような場所で意識を取り戻す。
まばゆいばかりの朝日が部屋を照らし、外から微かに漏れ聞こえる大衆たちの話声は、何処か聞き手を愉快な気持ちにさせた。
「…!◇△○◎△!」
「■◆▼◆■■!◆■▲!」
部屋の外から、男性と女性、二人の人物が言い争っている声が聞こえる。
ただその口喧嘩と思しき会話は、タローエルの知らない言語で行われていた。
話し声は、次第にタローエルに近付いていく。
「何これ…妙な状況…」
タローエルは訳も分からぬまま、一先ずは王室にあった豪勢なベッドの下に隠れる事にする。
部屋のドアが開かれ、外からは二人の人物がこの部屋の中に入って来る。
赤い王族装束を纏った男と、その妻と思しき女だ。
「□□○!…?」
女は、カーペットの上に落ちていた一枚の黒い羽根を拾う。
タローエルの背より零れ落ちた物である。
(まずい…)
「…」
女は周囲を見回そうとするが、直ぐに男に怒鳴られた為中断する。
タローエルはほっとする反面、複雑な気持ちになる。
(全く…酷い夫婦もあった物ね…)
二人は暫くの間怒鳴り合い続け、やがて男が部屋の外に出て行く事でその小さな争いは一先ずの終息を迎える。
女はドアを力いっぱい閉め、すぐさま疲れ切った様子でベッドの上にその身を放り投げる。
女は疲弊し、僅かに泣いている。
(…そうだ。そう言えばまだ、この状況に何一つの説明も付いていない。)
タローエルは、この部屋で目覚める前の記憶を探り始める。
確か、大地を黒炎が走り、自身はその炎を受け入れる事で生き延びようとして、そして、
(気を失い目が覚めたら、何故か此処に居た。)
考えられる可能性は一つしか無い。
タローエルは、自身の頬をつまんでみる。
(夢…いや、精神が肉体情報ごと何処かに飛ばされたのかな。)
つまるところ、タローエルの元の肉体はまだあの場所で昏睡状態にある可能性が高い。
これが何かの魔術や秩序によって意図的に形成された状況ならば対処は簡単だが、どうにもそれらしい物が感じられない。
これは恐らく、何かの拍子でたまたま発生した事象だろう。
タローエルはそう結論付けた。
(…だったら、此処は何処?)
この場合、可能性は二つである。
一つは、此処がタローエルの本体が眠っている土地の持つ記憶の一つと言う可能性。
もう一つは、タローエルの食らった炎か、それを発生させた物又は術式が持つ原初の記憶の可能性。
現状、此処がそのどちらかを確定させる方法は無いが、やる事は大体同じである。
夢にはいつか終わりが有る様に、投影された情景にも必ず何処かに綻びがある。
と言うより、記憶の持つ場所よりも外側に行けば簡単に抜け出す事が出来る。
例えば、記憶と全く関係の無い建物や部屋へと通じる扉の向こう。
例えば、最初の場所からひたすら遠く離れた場所。
こういった状況から抜け出す訓練ならば、タローエルは戦天使時代にしっかりと積んできた。
タローエルはベッドの下から這い出て、ベッドの前に立ち上がる。
「…?」
当然女は、タローエルの存在に気が付く。
「!?」
「しばしの間お邪魔させていただきました。では、私はこれで。」
何が起こったかとただただ戸惑う女だったが、タローエルはその事を特に気には留めなかった。
此処で何が起ころうとも、タローエルが現実に戻った瞬間全て消えて無くなるからである。
「□△○!○○◇!?」
女はタローエルに何かを言っているが、その言葉がタローエルに通じる事は無い。
タローエルは、外に出るため窓を開け放つ。
この時点でタローエルは既に、この情景の綻びらしき建物を数件確認する事が出来た。
「…見た事の無い文化形態の国だ。石英造りの街並みの筈なのに、街頭や煙突と言った所は金属製…これだけ栄えていたら、普通ならば何処かに名残りの一片ぐらいは残る筈…」
ふと、その場所の空が妙な色をしている事に気付く。
タローエルは空を見上げ、驚愕する。
「な…!?」
その空には、タローエルの知っている太陽が無かった。
空には光り輝く星が点々と鏤められる様に浮かんでおり、それが地上を照らしていたのである。
いくら情景と言えど、空の様子を唐突に間違える筈が無い。
この場所は、タローエルの知らない世界の記憶だった。
「□□!○○!」
「?」
不意に無数の人物の気配を背後に感じ、タローエルは振り返る。
いつのまにやら王室の中は衛兵らしき人物で埋め尽くされており、その衛兵達は皆燃え上がる剣を構えていた。
属性武器とは基本的に、非常に高価で希少な物である。
それを衛兵全員が所持しているその光景も、タローエルの目から見れば明らかに異常だった。
「×⇔∂!×←!!」
「…はぁ…」
例え情景の中と言えど、幾らでも怪我をして良い訳では無い。
身体は無傷だが痛みは感じるし、致死の傷を何度も追えばいずれ精神が壊れる。
本来ならば衛兵如きとっとと処理すれば良い話だが、タローエルには一つだけ懸念点があった。
タローエルはかつて戦天使として造られたが、素材となった魂に戦闘の才能が無かった為に落ちこぼれ使い捨ての身となった。
つまりは、タローエルは自身の戦闘能力に自信が無いのである。
ましてや相手は、未知の国家の未知の武器を持つ未知の軍隊。
タローエルはその頭数に、怖気づく。
「…でも、もしかすれば…」
タローエルは、自身の右手の平を見つめる。
右手に魔力を流し込んでみると、タローエルの手には聖魔力では無く黒い炎の灯が出現する。
今のタローエルには、才能は無いが、代わりに力がある。
「∂×⇒!」
衛兵たちはその言葉と態度で、タローエルに投降する様に促す。
彼らからして見てもまた、タローエルは未知なる異常存在だったのだ。
この世界には亜人種など存在せず、ましてや生身で魔法を使える者も居ない。
彼らもまた、タローエルに怖気づいていた。
「…炎…」
タローエルはふと悟る。
この場所は、タローエルが取り込んだ炎の持つ記憶だと。
本来ならば安全の為にも即刻抜け出すべきなのだが、タローエルはそれがどうにも勿体無い行為に思えてきたのだ。
「…取り込んだ能力をより理解するためにも、やっぱり暫くこの世界を探索すべきかな。」
タローエルは、自身の中で言い訳を成立させる。
「∂∀↑…?」
「ごめんね。やっぱり予定変更。暫く此処にお邪魔させて貰うね。」
タローエルは先ほど形成した黒炎の灯を両手で包み込み更に魔力を流す。
黒炎はタローエルの手の中で小さな爆発を起こし、ジェット噴射の様にエネルギーを放ちながらタローエルを後方に吹き飛ばした。
当然黒炎は衛兵達に直撃したが、彼らの纏う鎧によって全て阻まれ、彼らの中には怪我人の一人も出なかった。
「∂↑!↑!」
壁を突き破り城下へと落下していったタローエルを見下ろしながら、衛兵の中の隊長格の者が部下に指示を飛ばす。
城の窓と言う窓全てに耐火壁が降ろされ、城から放送された警報音が町全体に伸し掛かり、軍の兵舎の中からは沢山の衛兵達が城下町に繰り出していく。
市民達は当然屋内に避難していくが、さほど怖がったりする様子は無かった。
「“おいおいまたかよ…”」
「“今月もう何回目?いつまでこんな生活が続くのかしら。”」
どちらかと言えば、彼らはウンザリ、又は飽き飽き、又は呆れ返っている。
政権が壊れ、国家が分断したその日から、この国ではこう言った事が毎日の様に起こっていたのである。
この国の名は、新スティーン王国。
名君スティーン王の治める、この世界で最も繁栄し、敵対するアドメンツ連邦と共に世界の終わりまで存在し続けた大国である。