ギブミーギブアッパー
コロシアム。
選手控室にて。
「い…今の音は何だ!」
「一体外は今どうなってるの!?」
観客や職員達の騒ぐ声が薄い岩壁を通って控室にまで入って来る為、その場に居る全員が、このコロシアムで何か只事で無い事が起こっていると理解していた。
「い…今、各所へと確認を急いでおります!皆様、もう暫しその場で待機を!」
職員達も同様に、訳も分からず辺りを奔走している。
そんな重苦しい混沌の中、ギズル直属の数名の職員だけが秩序を保ち行動していた。その職員達でさえも、多少の動揺は見せていたが。
「こちら、今回の試合での支給品で御座います。」
「各国本土との連絡や物品のやりとりが必要な方は、この魔法陣をお使い下さい。」
ギズル直属の職員達は、あらかじめ用意されていた台詞を選手達に告げる。
例え世界を蝕むレイドモンスターが相手であろうとも、ギズルの計画は正常に機能するのである。
「待ってくれ。試合と言うのはどう言う事だ…まさか、今から大会を始めるのか?」
冒険者の一人が、この状況下で比較的平静を保っている職員の一人に問い掛ける。
「左様で御座います。これより1試合だけ開催するのです。」
「い…一試合だけって…」
「ええそうです。皆様は一つのチームとして。力を合わせ対戦相手と戦ってもらいます。」
職員が合図をすると、戦場へと通ずる岩製の大扉がゆっくりと引き上げられる。
「……!」
一同が待機している控室と、それが鎮座する戦場が繋がる。
戦場の端で一人の少女が戦場の壁にもたれかかり座っており、その少女の傍には軍服を纏った女性が、付近では奇妙な動物が居る。
少女の身体の大部分は霜で覆われており、所々には氷柱の様な物も刺さっている。
一見すればただの氷漬けの死体の様に見えるが、それを見た全ての人物が、それを死体だとは思わなかった。
「…何だ…何か…胸がぞわぞわする…」
“緑の谷”の部族の中で最も勇敢なオーガの戦士が、それを見た途端に狼狽する。
普通ならば強者を前に高揚する筈の野族の戦士達も、悪しき物に心を奪われぬ様に強靭な精神力を持つ聖職者達や聖騎士達も、未知なる敵地で戦闘を繰り返し恐怖などとうの昔に忘れ去ってしまった冒険者達も、鋼の意思を持ち祖国の為に戦う騎士達も、それを見た瞬間、一様に同じ感情を抱いた。
「…逃げなきゃ…」
とあるヒーラーが、胸の内に抱く感情を言語化する。
誰もそれに、反応する事は無かった。
その声が耳から聞こえて来た物なのか、自身の心の声なのか、誰も判別がつかなかったのだ。
「…寒い…」
対するティーミスはと言えば、最早意識があるかも怪しい状態である。
コロシアム全体に掛けられている熱魔法では、ティーミスを侵すギズルの氷が溶ける事は無い。
「ぐるる…」
「…大丈夫ですよ…ピスティナちゃん…きっと良い事が起こりますから…」
ティーミスはそっとピスティナの頭を撫でると、付近に居たナンディンと共にピスティナを兵舎の中に格納してしまう。
『選手諸君。聞こえるか。』
その時、その場に居る全ての者に音響設備越しのギズルの声が届く。
『これより今大会、最初で最後の試合を始める。選手諸君対、咎人ティーミス。もし選手諸君が勝利を収める事が出来た場合、第三皇子の名の下に、優勝賞金と同額の賞金を生き残った選手全員に贈呈しよう。』
何も知らない冒険者が、実況席に向けて声をあげる。
「ま…待ってくれ!ちゃんと説明してくれないか!めちゃくちゃだ!」
『心配せずとも、公平…と言うより、僅かにでも貴殿らに勝算を生む為、咎人にはハンデを背負ってもらう。』
「は…ハンデって…」
『先ず、見ての通り奴は瀕死の重傷だ。普通の人間ならば放っておいても死ぬだろう。
そして次に、咎人に限り召喚魔法の使用は禁止だ。勿論、ピスティナやらドラゴンやら吸血鬼やらも駄目だ。
そして最後に。』
ギズルは、実況席から大剣を一本戦場に放り込む。
ティーミスの黒炎の大剣だ。
『咎人が使用を認められた武器はそれだけだ。選手諸君、何か異論はあるか。』
当然出場者達は一様に困惑する。
異論と言うよりも、疑問だらけである。
『…宜しい。制限時間は無制限。各々、己がタイミングで奴に挑戦せよ。以上だ。』
ギズルはそれだけを言うと、本来ならば実況者が座る為の、戦場を最も広く良く見える席に座る。
その背後には、未だティーミスの魅了から覚めぬ第二皇子や護衛達がぼんやりと立っている。
「…帝国に、その血を捧げよ。」
ギズルは、勝負の勝敗などどうでも良かった。ジョックドゥームの吹雪さえ何とか出来れば、それで良かったのだ。
もしこの場でティーミスが死に、永久に蘇ら無い様であればそれで大団円。
それ以外であれば、この状態のティーミスによって、或いは完全な状態で蘇ったティーミスによって、選手一同は皆殺しだろう。
その場合は、約束通りティーミスにアトゥ攻略戦に参加した者達の名簿、それもギズルに関係無かったり都合の悪い人物を纏めた名簿と、次期皇帝を目指す上で邪魔な候補者である第二王子の首を差し出せば良いのだ。
どう転んでもギズルがティーミスにとりつけたこのゲームは、ギズルにとって有利にしか働かなかいのである。
「…さて、せいぜい楽しませておくれよ。我が生涯唯一の想定外ティーミスと、金か名誉か、又はその両方に目が眩んだ出場者諸君。」
ギズルは高級赤ワインのボトルを空けながら、上等なクッションの据え付けられた岩製の観客席に腰を深く沈める。
その首からは、いつでも起動可能なリコールストーンがぶら下がっている。
「…まあ良くわかんねえけど、取り敢えずあれぶっ壊せば良いんだろ?」
日に焼け褐色になった肌と筋骨隆々の肉体を持った一人の野戦士が、手斧を持ってゆっくりと歩み始める。
他の出場者達は、その様子をただただ見守っている。
「ほぉ、近くで見たら中々カワイイじゃねえか。てかこれ本当に生きてんのか?…まあ良いや。」
野戦士は、戦場の壁にもたれかかったまま死にかけているティーミスに向かって手斧を振りかぶる。
瞬間、ティーミスの瞳がごろりと野戦士を捉える。
「あ?」
ティーミスは、完全に油断しきっている野戦士の脛を蹴る。
野戦士は蹴られた脛を見る。
「何だよ。それだけか…」
野戦士はふたたび顔を向けるが、そこにはもうティーミスは居なかった。
「…あ?」
野戦士は、自身の鳩尾に黒炎の大剣が突き刺さっている事に気が付く。
野戦士が最後に見たのは、自身に突き刺すような視線を向けるティーミスの、霜の掛かった冷たくも美しい顔だった。
ティーミスは、男の骸を付近に放り投げる。
「…しゅうう…」
ティーミスは僅かに口を開け、体内の冷気を白い息として吐き出す。
付近に放り出されている野戦士の骸からは赤色の靄が立ち上り、靄はティーミスの左手首に吸い込まれて行く。
ティーミスは“血酒”によって、ギスルによって負わされた傷をほんの少しだけ回復させる。
ティーミスの吐き出す白い呼気と、骸から吸い出される赤い霧が、奇妙なハイライトを織り成しながらティーミスを取り巻いている。
「…悪趣味なゲームですね…棄権する方は、先に言ってください。挑戦する方は…こっちに来て下さい。」
ティーミスは大剣を杖代わりに立ちながら、掠れた声で選手達に提案する。
観客席にはもう生きている人間が殆ど居なかった為、ティーミスの声はティーミスから見て戦場の反対側に居る選手達にも、はっきりと届いた。
選手達はしばしの間囁き合い、やがて一人の男が前に出る。
「僕の名前はレオナルド・カーン。」
「…挑戦ですか?棄権ですか?」
「そんなの決まっている。」
レオナルドはそこからさらに数歩、ティーミスに近寄る。
ティーミスは大剣を少し強く握り、若干身構える。
「僕は棄権する。」
「にゃ?…そ、そうですか…」
ティーミスは拍子抜けした様子で警戒を解く。
「僕にはこの大会の賞金に、命を賭すだけの理由は無い。…それに、君みたいな可愛らしい御嬢さんに剣を向ける事なんて、僕には出来無いんだ。」
「…何ですか…私を口説くつもりですか?」
「…どんな強者でも、抗え無い物の一つや二つはある。例えば、」
レオナルドは軽くポージングをすると、ティーミスに向けてウィンクをする。
「僕の魅力、とかね。」
レオナルドは棄権と言いつつ、ティーミスに向けて攻撃を仕掛けたのだ。
「はあ…そうですか…」
「…あれ、おかしいな。この距離なら問題無い筈…」
「良く分かりませんが、取り敢えずさようなら。」
ティーミスは指をパチンと鳴らすと、レオナルドの立っている場所に穴が開く。
レオナルドは疑問符を浮かべたまま、コロシアムから遥か離れた別な場所へと送り込まれる。
レオナルドがティーミスに与えたのは、変な奴と言う印象だけである。
ティーミスは、自身が魅了攻撃を受けた事に気付いていなかった。
「…次の方は。」