対局開始
ティーミスはフードを頭に被りながら、コロシアムの外周に展開している雑多な人集りの中を歩いている。
人々はティーミスとぶつからないように避けたり退いたりするが、咎人の容姿を知っている者ですら、声一つ挙げずにティーミスに脇を通り過ぎさせていた。
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『怠惰相』
パッシブスキル
《認識の蓑》
あなたが望む限り、あなたは【認識迷彩】状態になります。
【認識迷彩】
全ての対象が、貴方の存在を知覚したと言う認識を得られなくなります。
ただし、あなたを完全に知覚しないままあなたを気に留めた対象などに対しては、この効果は無効化されます。
あなたを物理的に認知可能な人物の中での一定割合数があなたを認知した時点で、このバフは解除され、次回使用時までに7日間のクールタイムが発生します。
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(…あの子はきっと、よく分からない誰かとして、私を見つけたのでしょう。)
この状態のティーミスは、通常の方法で認識する事は出来無い。
ティーミスを見つけようとするのではなく、大多数の中の一人としてたまたま抽出される必要があるのだ。
そしてあの少女は偶然、群衆の中からティーミスを引き当てたのだ。
(…やっぱり、私には概念の考え方はよく分かりません。)
ティーミスは透明になった訳では無い。
ティーミスはあくまでも、一時的にティーミスとして認識されないようになっただけである。
この迷彩は、完全に姿を消す《盗人の礼法》とは違い、アンチステルス魔法に引っ掛からない代わりに些細な出来事で解けてしまう。
例えば、ティーミスが此処で少しでも浮いた行動を取った瞬間、ティーミスは群衆から浮いた行動をとる人物へと変化する。
その結果ティーミスが大勢に認識されるきっかけが生まれ、この実態の無い迷彩は剥がれてしまう。
(早く行きましょう。今後も、こう言う出来事が起きてしまうかも知れません。)
先程はたまたま対応する事が出来たが、毎回そうなるとも限らない。
ティーミスは僅かにフードを引っ張ると、観客予定者に混じり足早に、正門からコロシアムの建物内へと侵入していく。
(これは…岩魔法による創造物ですか…)
コロシアムの内外装や建物としての簡単な造りから、ティーミスはそう判断する。
もしもこれが一人の魔法使いによって造られたものならば実に恐ろしい、と思われる。
ティーミスのこの世界の魔法に関しての知識は、学校で習った事以上の物は特に無いのである。
故に、このレベルの魔法使いならばこんな魔法を使えるだとか、そう言った知識がティーミスには存在し無いのだ。
故にティーミスは、このコロシアムが人間一人で作れる代物などでは無い事は知る由も無かった。
(…凄く脆そうな質感ですし、これだったらすぐ壊せそうですね。)
天井から時折パラパラと砂屑が落ちて来るのを見ながら、ティーミスはそんな確信を抱く。
もしも大規模な戦闘になった場合、ティーミスにとっては建物など、利用する価値も必要性も無いただの障害物でしか無いのである。
コロシアムが頑丈そうでないと分かり、ティーミスはほっと息をつく。
観客が続々とコロシアムの中に入っていき、売店で買った思い思いの食料を片手に観客席に座って行く。
彼らは皆、選手達の戦いと、時折起こる死を楽しむ為にこの場所に訪れたのである。
同族の死を娯楽と捉える文化を持つ種族など、人間以外には存在しない、
「…おえ…」
ティーミスはその観客達が至極醜く見える。
観客達の一時の快楽の為に、選手は命を散らすのである。
命の終わりが齎す物として、明らかに釣り合っていない。
ティーミスは胸焼けに苛まれるも、他の観客に混じり屋外観客席に座る。
飛び入り参加などしてしまっては自身の身がどうなるか分からない為、標的の帝国騎士が出るまではただの観客として過ごすのだ。
実況席と思しきコロシアムの中で最も高い席から、拡声魔法によってけたたましく増幅された実況者の声が聞こえてくる。
「レディース!エンド、ジェントルメン!大変長らくお待たせいたしました!これより第9412回クレマオスへと捧ぐ剣闘大会を開始します!ではまず、今日この日の為に本土から赴かれた、第三皇子、ギスル陛下からの有難きお言葉です!」
観戦席に、数多の護衛に囲まれた一人の男が現れる。
ティーミスは男の顔を見て、嘔吐した。
「うえええ…ゲッホ…ゴ…」
「ん…お、おい…大丈夫かあんた…」
ティーミスの隣の席に座っていた一人の男性が、驚いた様子でティーミスに問い掛ける。
ティーミスの吐き出す物は、決まって黒色のタール状の物である。
ティーミスからしてみればそれが普通なのだが、常人から見ればそれは異常な光景である。
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【認識迷彩】が軽度の損傷を負いました。
2/20
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「はぁ…はぁ…グプ…」
少し顔をあげ、壇上で御託じみた台詞を唱えるギスルの顔を見て、また嘔吐する。
「うお…大丈夫じゃねえだろ…今すぐ、大会職員を…」
「…いえ…良いんです…」
ティーミスが余りに酷い有様なので、周囲の人間もティーミスの様子に気付き始める。
「ねえ、あの子大丈夫?」
「あの黒いのって…墨かなんか?」
「ん?よく見たら随分と変わった格好してるな。」
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【認識迷彩】が中程度の損傷を負いました。
10/20
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「はぁ…ゴッホゴホ…」
ギスル・ケーリレンデ。
ティーミスは彼の顔を、片時も忘れやしなかった。
数多回穢されたティーミスだったが、その最初の人物の顔は、ティーミスどの顔よりもはっきりと覚えていた。
それと同時に、最初の日に起こった事も、それでティーミスがどう感じたかも、ティーミスは全て覚えていた。
ティーミスは彼の顔を見た瞬間、経年と忘却によって希釈されていた、忘れようとしていた思い出が全て鮮明に蘇ったのだ。
観客が飽き始めた所で、ギスルの長ったらしい演説が一先ずの終演を迎える。
「では最後に、一言だけ言わせて下さい。」
ギスルは呼吸を整えると、先程の良き皇子としての雰囲気は何処へやら、非常に冷たい声で、会場に向けて一言こう告げた。
「そこに居るんだろ。俺が憎かったらとっとと出てこい。」
「………っ!」
観客や職員が、何事かと囁き合い、それが一塊の騒めきとなって会場を包む。
ティーミスは完全に、ギスルの計画に嵌っていた。
「…今です…」
ティーミスは掠れた声で、ティーミスにだけ聞こえる音量でそう呟く。
すると突然紅色の光が、コロシアムの戦場目掛けて天空から一直線に落下する。
まるで爆弾でも爆発したかの様な衝撃波が発生するが、戦場で行われる試合から観客を守る為の円筒形のシールドによって、衝撃波は上へと噴出する。
本来透明である筈のシールドが、衝撃波と共に上へ巻き上げられる土砂や紅色のエネルギーによって可視化され、やがて所々にヒビや欠けが生まれ始める。
「…!増強魔法を!早く!何があっても命に代えても、観客防護障壁は破られてはならない!」
付近に居た職員が魔法陣の描かれた布切れに向かってそう話すと、コロシアム屋内から無数の魔法使いが現れる。
魔法使い達は皆、シールドを増強する為の魔法陣を右手に掲げている。
「ぐ…駄目だ…!西側に誰か寄越してくれ!」
「恐らく…この衝撃は一時的な物だ!なんとしてでも持ち堪えろ!」
コロシアムの観客席ではたちまち大混乱が巻き起こっている。
観客達は一斉に出口に向かって進行を始めた為、そこら中で人の雪崩や詰まりが起こっている。
実況席も当然パニック状態だが、あいも変わらずギズルだけは、至極落ち着きながらその様子を眺めていた。
「ギスル!いくらお前でもここは危ない!早く逃げ…」
「君は此処に残ってくれ。兄貴。」
「…え?一体何言って…」
「心配するな。実の弟としての我を、信じてくれ。」
初めは戸惑っていた二方の護衛達だが、ギスルのその様子に再び落ち着きを取り戻す。
「…何があっても、両陛下をお守りします。先程は取り乱してしまい、誠に…」
「良いんだ。何も知らない中でこんな状況になったら、我でも君達の様な動揺は見せるさ。」
「…?つまり、陛下は初めからこの事を想定して。」
「まさか空からの登場とは思わなかったがな。」
対局板は開かれた。
駒も並べられた。
これよりギズルは、大掛かりなゲームを始める。